(5)「未然記」の由緒
「未来記」に対するもう一つの預言書が「未然記」である。学術的には「未然本記」が通り名である。
「未然記」の量は「未来記」の数倍あり、「乾(いぬい)」、「坤(ひつじさる)」の上下巻に別れている。
「未然記」も「未来記」同様、全て漢文で書かれている。
「未然記」の大きさは縦18センチ7ミリ、横13センチで、右4カ所に幅5センチ3ミリ間隔で糸綴じがある。
全体的に「未来記」より縦が短く横長で、上下巻とも同寸である。
なぜ徳川幕府は「未然記」と「未来記」を同じ寸法で写本しなかったのかというと、写本した年代が違うからである
「未来記」は第3代・徳川家光の頃で、「未然記」は第8代・徳川吉宗の頃である。
その事が「未然記」の末尾、二巻目の最後に「享保十三年戊申六月下旬」で判明する。
享保年間は1716~1736年の間で、享保13年は1728年となる。
つまり徳川吉宗の時代である。
吉宗は紀伊の藩主だった徳川光貞の第四子として生まれ、1705年、兄の死と共に紀伊藩主となるが、1716年の家継の早死にて将軍職に就いた。享保元年のことである。
それ以降、幕府の経営状態を立て直す「享保の改革」に力を入れ、倹約令を下し、庶民にも生活の緊縮を命じた。貨幣を改鋳し、幕府を財政難から立ち直らせた業績で、幕府中興の祖と称されている。
その一方、寛永年間以来禁止されていた洋書の研究を緩和し、蘭学を学ぶことを奨励し、庶民の声を聴くための「目安箱」を設けた名称軍だった。
吉宗が紀伊藩主をしていた頃、法隆寺と四天王寺に所蔵される、聖徳太子の預言書の存在を聞いていた可能性がある。
日本の国史は「古事記」、「日本書紀」の2書だが、本来それに「先代旧事本紀」がなければならないとされている。
「先代旧事本紀」は聖徳太子が蘇我馬子らに命じて選述させた歴史書とされ、神代から日本最初の女帝・推古天皇(554~628年)までの事跡が記されている。
それまでの日本は漢字ではなく「神代(じんだい)文字」が使われていたとされ、太子は諸家から神代文字の古文献をすべて集め、編集させたという。
それを漢字の訳したものが全10巻の「先代旧事本紀」である。「先代旧事本紀」は、蘇我氏の滅亡とともに焼失したとされたが、平安時代初期に突如として世に現れる。
その結果、物部氏の末裔の石上氏、榎井氏らが再び朝廷に復帰することになる。
さらに、「先代旧事本紀」は、「国記(くにつふみ)」、「天皇記(すめらみことのふみ)」、「臣連伴造国造(おみむらじとものみやっこくのみやっこ)」等の元本資料として最近では見直されている。