Quantcast
Channel: 日本と世界の情報ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

聖徳太子の「未来記」開封(3)

$
0
0

(3)天照大神とイエス・キリストの謎

 ユダヤ密教の三柱構造を解き明かしたのがイエス・キリストとされている。

 イエス・キリストは「天の父」、「子」、「聖霊」の三柱の神を明らかにし、それが故に奥義に通じていなかったユダヤ人が、一神教を冒涜したとしてイエス・キリストを十字架に掛けたのである。

 そのイエス・キリストが、磔刑3日後に復活して蘇ったと「新約聖書」は伝えている。

「この時から、イエスは、御自分がわからずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(新約聖書「マタイによる福音書」第16章21節)

「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らの内の二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自分を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(新約聖書「マルコによる福音書」第16章11~14節)

 イエスの復活を背負う一族が聖徳太子の頃にいた。蘇我氏である。

 蘇我氏は「我は蘇り」と書き、蘇我馬子は「我は蘇った馬小屋の子」となって、イエス・キリストを暗示する。

「イエスは言われた。「私は復活であり、命である。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第11章25節)

 新共同訳聖書ではなく、欽定訳聖書では以下のようになり、さらに明確になっている。

「イエスは彼女に言われた。「私はよみがえりなり、命である。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第11章25節)

 さらに別の訳には「我は蘇りなり、生命なり」とあり、蘇我氏の素性を示している。

 蘇我と同じ意味を持つのが厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子)である。このことから蘇我馬子と聖徳太子は同じ人物の可能性が出てくるのである。→(聖徳太子の正体は、秦河勝であり、蘇我馬子であり、小野妹子でもあった。つまり、聖徳太子は実在しなかったことになる。)

 秦氏の秦を漢字破字法で分解すると「三・人・ノ・木」で、三柱と同じ意味になる。古来、日本人は雷が鳴ると「クワバラ・クワバラ」と叫んで難を避けたが、「カバラ・カバラ」と叫んでいたことになる。つまり、カッバーラによる雷の閃光の意味である。

 さらに「クワバラ」は「桑原」で、「又・又・又・木」となり、又×3の木となり3本の木と似てくる。実際、又の漢字の意味は三叉の右手である。三叉は三柱構造、右手はユダヤで聖なる手と教える。その桑が生える原がクワバラで「高天原」と同じ意味を示す。

 高天原は天照大神が治める神界で、天照大神を漢字分解すればどうなるのか?

 「大嘗祭」を仕切る「下鴨神社」の書き順に従うなら、「天=工・人」、「照=日・召・炎」、「大=一・人」、「神=ネ・申」となり、統合すれば「炎の日の神に召された一人の大工と申す」となる。大工だったイエス・キリストを意味する名称である。

 天照大神と言えば、「天岩戸隠れ」で知られるが、「隠れる」は日本では死んだことを意味し、そこから出てくることを蘇りという。「新約聖書」はそれを復活という。

 藤原不比等の頃、それまで男神だった天照大神が、女神に変貌させられたことが明らかになっている。「古事記」「日本書紀」はその直後の編集されたため、天照は女神になって現代に伝えられている。

 当時の権力者だった藤原不比等は、第41代・持統女帝、第43代・元明女帝、第44代・元正女帝と続く女帝の下、着実に実権を握り続け、717年には不比等大政権を確立した

 特に、持統女帝の軟弱な基盤を強固にするため、女神の下で統合される日本を造る必要が出てきた。そこで皇祖神である天照大神を男神から女神へ強制的に入れ替える策に出たと考えられている。記紀の撰録と編集はその延長上にあった。

 その策は徹底し、それまで伊勢神宮の祭祀全般に関わり、神主職だった渡会氏を、外宮の豊受大神だけの禰宜に降格させ、代わって中臣氏系の荒木田氏を内宮の禰宜に任命している。過去の知識をすべて消し去ろうと画策したのである

 天照大神とイエス・キリスト。ユダヤと日本。これを偶然と考えない方がいい。なぜなら聖徳太子が預言と関わり、そのブレインが秦氏だったからである。

 「未来記」と「未然記」は扱う預言の分野が違っている。「未来記」は主に「宗教・政治関連」の預言で占められ、「未然記」は「社会の出来事」で占められている。つまり、両書は預言する対象が違っているのだ。

 現在の日本はグローバル化の嵐の渦中にあり、その意味で「未来記」は日本だけに関わるとは思えない。国際政治の表舞台とも深くかかわる可能性がある。むしろ「未来記」はグローバル化した現代でこそ役に立ち、国策を過たない指針になるはずなのだ。それが最終的に世界の救いとも関わって来る。聖徳太子がイエス・キリストと関わる人物であればあるほど「未来記」の持つ意味は大きくなる。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

Trending Articles