(1)聖徳太子の預言伝承
聖徳太子と言えば、西暦607年に隋の煬帝に遣隋使を派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」の書簡を送った人物として知られている。
これは歴史的事実である。現代の教科書は、聖徳太子を厩戸豊聡耳皇子、厩戸皇子と教えるが、死後、聖人に与えられた名である聖徳太子の名を使う。その方が一般的であるからである。
聖徳太子は、地位を継承する世襲を廃止し、個人の能力を重視する「冠位十二階の制」(603年)や、皇室の尊厳と為政者の心構えを記した「十七条憲法」(604年)を制定した。
さらに聖徳太子は、蘇我馬子と共に「天皇記」「国記」を記し、それが日本の国史(正史)である「日本書紀」の素材にも使われている。その事から聖徳太子は、日本の正史編成の基盤を築いた人物とも言える。
その聖徳太子にはもう一つの顔がある。それは未来を見通す「預言者」の顔である。それはただの伝承ではない。国史である「日本書紀」の中に明確な言葉として残されているのである。
「・・・兼知未然・・・」→「兼ねて未然に知ろしめす」は、あらかじめ先の出来事を知ることができた意味である。つまり、聖徳太子に預言する能力があったことを、国史が明確な言葉で書き残しているのである。
この意味は、あくまでも「未然に知った」という記述である。事実、聖徳太子の預言伝承は日本各地に残され、その事から「兼知未然」を預言として広く解釈されていたことがわかる。
最も有名なのが「法隆寺」に保管されている「未来記」の存在である。伝承では「未来記」が世に出たら必ず仏教が滅亡(あるいは衰退)に向かうとされている。法隆寺では、そうなった場合に備えた伏蔵(ふくぞう)という結界まで存在している。
同じく聖徳太子が建立した「四天王寺」にも同様の伝承が存在する。建武の中興で知られる楠木正成が、四天王寺(当時の天王寺)の境内に陣を張っていた時、秘蔵とされていた「未来記」を読んだとする伝承が残されている。
その辺の件は、応安年間(1368~75年)の成立した「太平記」の中に記されているが、「太平記」は偽書扱いにされている。
ところが、実際に正成が「未来記」閲覧の返礼として、四天王寺に礼状を書き送っており、それは「太子未来記伝義」として今も四天王寺が保管している。
一方、「未来記」以外にも聖徳太子の預言者が存在する。それが「未然記」である。「未来記」「未然記」の両書を合わせると「古事記」「日本書紀」同様に「記紀」となり、このような同質二種の手法を「合わせ鏡」という。
「未来記」「未然記」の預言書は、国会議事堂横の「国立国会図書館」に保管されている。とはいえ、両預言書は「写本」である。そして出所が徳川幕府である。
「未来記」が写本された慶安元年(1648年)は、第3代将軍・徳川家光の頃になる。他方、「未然記」が写本された享保13年(1728年)は、第8代将軍・徳川吉宗の頃である。
「未来記」の末尾に記された「天王寺宝庫」の文字が重要で、その意味は四天王寺の宝物庫から持ち出されたことを示し、それができたのは時の最高権力者以外にない。
「未来記」「未然記」の写本は、江戸城に長年保管されてきたが、最後の将軍・徳川慶喜により、明治政府に移譲された。結果、「帝国図書館(国立図書館)」に保管されて今に至るのである。
「未来記」はこれから先の日本と日本人に関わる重要な預言が書かれている。それを一気に垣間見るには、「未来記」が最も適しているかのしれない。分量が「未然記」ほど多くなく、表現が単刀直入で贅肉が一切存在しないからである。