Quantcast
Channel: 日本と世界の情報ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(79)

$
0
0

(79)最後の審判の後、地球はどうなるのか?

 終末の日、徹底的に神に逆らった星の輝きの人々には、新エルサレムに入る機会すら与えられない。彼らは生前に何度もあったその機会を無視して滅びの世を好み、サタンと獣と偽預言者を選んで、神を蔑んだからである。こうした人々は無数にいる。

 そうしてすべてが終わる最後の審判の後、地球は消滅するのである。だが、それは瞬間的な死である。

 神が創造した巨大生命体である地球は、人と同じようにノアの大洪水でバプテスマを受け、火による聖霊も受けたことになる。福千年の地球は月の輝きの段階にある。なぜなら、地上に月の輝きの人々が住むからである。その地球が太陽の輝きに移行するには、瞬間的であれ死を迎える必要がある。それでなければ、地球はイエス・キリストのような復活体を得られないからである。

「もはや、夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第22章5節)

 地球は福千年の直後に粒子になった後、瞬時に復活体となって蘇る。その時の地球は、全く新しい天体であり、我々の知る宇宙とは全く別の空間にいる。そこは光輝く世界、無数の光が満ちた光の海である。

 太陽の輝きに属する空間は神々だけが住む世界で、他の輝きに属する人々は、絶対にこの世界に入れない。だから、月の輝きに属する人々や、星の輝きに属する人々は、下位の位階に存在する別の天体に移される。それでも、今の地球よりはるかに美しい世界とされ、幸せになれるとある。

 地上で夫婦や家族だった者も、バプテスマを受けた者の名が記される「命の書」に名がなければ、別の世界では離散する。各々の霊的レベルが違うからである。(私は霊的次元でいうと、8次元の如来界と7次元の菩薩界が太陽の輝きの属し、6次元神界と5次元霊界が月の輝きに属し、4次元幽界が星の輝きに属すると考えている)

 ヒエラルキーをカッバーラで紐解くと、最上位階の者はどこでも行けるが、下位階の者はそれより上に行くことができない。太陽の輝きに属する人々はどの世界でも行けるが、月の輝きに属する人々は星の輝きの世界には行けても、太陽の輝きへはいけない。星の世界に属する人々は、そのどちらにも行けないのである。これは永遠に変わらない。上位階に家族がいれば、訪れてくれるので幸せだが、そうではない人は自分と同じ霊的レベルの人々とだけ永遠に暮らしていくことになる。

 しかも、太陽の輝き以外の人々の復活体には、家族を作る機能を持っていない。あるいは霊的な意味で、その行為を永久に放棄するからだが、詳細は分かっていない。ともあれ、子孫を増やす機能は太陽の輝きに属する人々、つまり神々の特権なのである。

 太陽の輝きに移動する瞬間、地球の速度は光速を突破する。全てが光の粒子となり、全く別の次元に移動するのだ。こうして復活体となった地球には、そこに住むにふさわしい人々だけが存在しる。

「私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」)新約聖書「ヨハネの黙示録」第22章13節)

 神は初めから終わりまで存在する不死不滅の存在ということである。日本では古来それを陰陽で表してきた。陽が初めで「〇」、陰が終わりで「□」。そして、太陽が上がって来る方角「東」(始まり)が陽で、太陽が沈む「西」(終わり)が陰。だから、死者の霊は陰に向かう西方浄土とされた。相撲の土俵も〇□、前方後円墳も〇□、国旗の日の丸も〇□で示している。

 〇□は日本人の習慣に定着している。関西の正月の餅は〇だが、関東は□。これで陰陽を示している。

 ヨハネは黙示録の内容が少しも損なわれずに7つの教会と終末の人々に残るよう、カッバーラをカモフラージュした。だから、長年、バチカンは黙示録を異端としてきた。それ自体、バチカンにカッバーラが存在せず神権もない証拠なのだが、黙示録が新約聖書に組み込まれることになったことも、神の計らいと言えるだろう。

 写本ミスや、故意の書き換えもあり、完全な黙示録ではないが、それでも大きな「つまずき石」は置かれなかった。それは以下のヨハネの警告が効いたからである。

「これに行け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第22章18~19節)

 この一文が功を奏し、終末の日まで何とか黙示録は原型を留めて残ることができた。それによって終末の人々が未来を予見できるようになり、判断の目安として使えるように残されたのである。

 しかし、バチカンを中心とする大教会の連合は、自らの保身のために黙示録にある一文を利用している感がある。いずれ登場するもう一つの聖書が現在のキリスト教の教義を根幹から揺るがすことを懸念して、それを排斥する布石を打っていた。その一文とは、「付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる」である。バチカンは、黙示録が聖書の末尾にあり、この一文が結びとなるため、黙示録をもって最後とせよとヨハネが言っていると解釈している。だが、それは詭弁である。なにしろ、ヨハネが黙示録の中で終末に現れるもう一つの聖書を預言しているからである。しかも、黙示録が最後になったのは、バチカンが着せた異端の汚名が原因であり、その分だけ編集が遅れただけのことである。

 バチカンの解釈が正しいのなら、旧約聖書の「申命記」以降から新約聖書の全てが異端となる。なぜなら、モーセが以下の言葉を「申命記」に残しているからである。

「あなたたちは私が命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」(旧約聖書「申命記」第4章2節)

 つまり、バチカンがもう一つの聖書の登場を黙示録の一文を盾に排斥しようと企てるなら、同じ一文がある申命記以降の書はすべて偽書ということになってしまうのである。

 モーセもヨハネも、預言の言葉を書き換えるなと命じているだけで、自分以降の預言者の言葉を認めないと言っているわけではない。このことはバチカンと連合するキリスト教会の動きがサタンと連動していることの一つの証でもある。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>