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カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(78)

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(78)「新エルサレム」の別名は「エノクの町」である!

 新しいエルサレム(新エルサレム)は、かって地球に存在していた町だった。しかし、神によって町ごと天空に取り上げられたのである。つまり、新エルサレムの別名は「エノクの町」なのである。

 エノクの町が、天空を飛翔する町として、光に包まれながら福千年の直前に舞い降りてくる。どこに降りるかは、すでに大陸が一つになっているので意味がない。だが、地上でもシオンが原始キリスト教会によって生まれているため、同じシオンとして数えられるだろう。

 シオンは「神がいる所」「神の祝福がある所」という意味で、神の王国を総じてシオンと呼ぶ。よって、原始キリスト教会の建てた神の王国も新エルサレムと呼ばれ、そこに大天使ミカエルが降り立ち、14万4000人のイスラエル12支族の末裔の前で、イエス・キリストの再降臨の準備として地球を奉献するのである。天地創造者に全てを帰すためである。

 再び時が福千年の前に戻っていると述べたが、それがなぜわかるのかというと、大陸集合の記述もあるが、すぐ後に7人の天使の記述があり、彼らが新しいエルサレムを紹介しているからである。

「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が霊に満たされた私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神の元を離れて、天から下って来るのを見せた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第21章9~10節)

 この段階で、「その中の一人」の天使というと、第7の災いの鉢を持つ天使しかいない。つまり、すでに6つの災いが終わり、7つの災いも終わった福千年の直前を意味する。

 第7の災いが終わった頃は、灼熱の巨大天体が地球に未曽有の天変地異を引き起こし、南北がひっくり返ってしまっている状態である。そして、全ての陸地が集まって、大昔の超大陸パンゲアのような一つの超大型大陸を形成、その大きさも、アダムとエバの頃の地球に戻っていると考えられる。海水は完全に蒸発した状態である。

 その時に、エノクの町が新しいエルサレムとして天空から降臨する。その聖なる都について、ヨハネは次のように記している

「都は栄光に輝いていた。その輝きは宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には高い大きな城壁として十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻み付けてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻み付けてあった。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第21章11~14節)

 エノクの町が天空に取り上げられたのはノアの大洪水以前のことであり、その当時、ヤコブはまだ生まれておらず、イスラエル12支族も生まれていなかった。だが、新エルサレムとなって降臨したとき、東西南北四隅に3つずつある12の門と城壁の12の土台には、イスラエル12支族の名が刻まれているという。

「この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、1万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、百四十四ぺキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第21章16~17節)

 ここで4面の城壁に囲まれたエノクの町の寸法が記されている。カッバーラから判断すると、エノクの町は、ギザの丘に建つ大ピラミッドと同じ四角錐だと考えられる。12段構造の階段状ピラミッドで、マヤ文明のそれと似ている。だから立方体ではない。

 こんな途方もない大きさの建造物が建てられたのは、地球の重力が今よりはるかに小さかったからだろう。地球にそういう時代があったことは、発掘された巨大恐竜化石が証明している。科学的シミュレーションを行った結果、7階建てのビルに匹敵する「サイズモサウルス」や「ウルトラサウルス」のような巨大恐竜は、今の地球の重力下では歩く事も立ち上がる事もできないことが判明している。

 再びエノクの町が戻るとということは、地球は大洪水以前の重力に戻っていることを意味する。つまり、地球は膨張する以前の大きさに収縮しているのだ。だから、大陸や島々は元に戻るのである。

 重力が小さかったからこそ、ノアも巨大な箱舟を造れた。恐らくノアの家族は、当時の重機や巨大動物を使ったはずで、今も深い地層から精巧な機械の一部や、歯車などが化石となって掘り出されている。だが、そういう物が発掘されても、常識では考えられないことから、アカデミズムは「オーパーツ」として処理してしまう。

「私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第21章22~23節)

 エノクの町には太陽や月の光は不要で、イエス・キリストの光で包まれている。原始キリスト教徒の新エルサレムも同じである。イエス・キリストの光に包まれた地球は、温暖で平和な世界が続いている。そこには神殿はなく、神が神殿となって座るとある。

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第22章1~2節)

 ここに「命の木」が登場する。黙示録は象徴と比喩で構成されるため詳細は不明だが、「両岸には命の木があって」というからには、生命の樹が一つではなく、複数存在していることは明らかである。イエス・キリストの栄光に輝くレベルは、最高位に達しているだろう。

 無数に並ぶ生命の樹は、至高の三角形に属する人々のことで、アダム、エノク、ノア、メルキゼデク、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ等々の聖人と考えられる。

「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」とは、イエス・キリストの光であり、永遠の生命の躍動のことである。

「人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者は誰一人、決して都に入れない小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第21章26~27節)

 「諸国の民」とは、今の我々が住む世界の人々のことである。その民が「都に来る」のは、「栄光と誉れとを携えて」いるからであり、それが救いに関わる重大な価値を持ち、月の輝きに属する人々が、シオンに入ることが出来ないことに関係する。

 この都は神の神殿そのもので、イエス・キリストの福音を受け入れ、バプテスマを受けた者しか入れない。つまり、「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」絶対聖域なのである。だから、月の輝きに属する人々がそこに入るには、悔い改めてバプテスマを受けなければならない。それによって、はじめてその資格を持つと認められるということであり、それは「栄光」であり、「誉れ」であると解釈できる。


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