(76)最後の審判
実は、ハルマゲドンは都合3度ある。
最初のハルマゲドンは、地球が生まれる前に起きた天界での大戦争の時である。その時、ルシフェルは、独裁者的立場を得たいがために神の座を狙って戦いを挑み、自分に従う天使の3分の1を滅ぼした。このハルマゲドンは「霊のハルマゲドン」である。
2度目は、骨肉の体を得た段階におけるハルマゲドンである。地上でイエス・キリスト側に立つか、獣の側に立つかを選択せねばならず、ここで人が振り分けられる。これは善人として生涯を終えるか、犯罪に手を染めて悪人になるかの選択でもある。
最後は、復活後のハルマゲドンである。これは不生不滅の復活体同士の大戦争になる。その中には、復活した獣と法皇もいて、神を否定し、その存在を許せない者たちが大集結する。
復活体でも、大きく3段階に分かれる。それは「太陽の輝き」、「月の輝き」、「星の輝き」があり、その輝きは真昼の明るさ、満月の明るさ、星空の明るさほどの違いがあるとされる。
最初に復活が許されるのは、太陽の輝きに属した人々で、全員がバプテスマを受けている。例外は年端もいかない赤ん坊、幼児、少年少女など、自己責任の無い低年齢の者たちだ。そこには精神を病んだ人々も含まれている。しかし、性格を病んだものは別である。彼らは自分では責任のとれない精神患者ではなく、自分で性格を捻じ曲げ、悪に染まり、心が捻じれたまま生涯を終えたからである。
月の輝きに属するのは、神仏を信じ、悪に染まらずにいた人々である。無宗教でも道徳心の高かった人々もここに行くことになる。
福千年はそういう人々の世界とされるが、太陽の輝きに属する人々は、地上には住まず、太陽から地球を訪れると考えられる。なぜならそこが太陽の輝きだからである。つまり太陽は、単なる核融合炉ではないからである。
一方、星の輝きに属する人々は、この世的に生きた人々である。一生でやったことは、「起きて、働いて、食って、寝て」だけで、どんなに高い学歴を有し、綺麗な衣服を身に着け、豪華なマンションで生活しても、それだけでは動物の生き様と変われない。この人たちが月の輝きの人々と違う点は、神仏よりこの世を愛することである。神は人の心を見る。形式だけの信仰では、この世界からは抜けられない。そこには神仏への信仰を捨てた人々も含まれる。だから、星の輝きに属する人々が最も多く、月の輝きが支配する福千年での復活は許されない。
この世的に生きてきた人々が復活するのは、福千年の終わりの頃で、彼らは復活を果たした後、シオンをめがけて一斉に攻め込んでくる。彼らにとっては最後の大逆転を期待しての攻撃だが、これは「天界の大戦争」において悪霊がやったことと変わりがない。
結果もしかりで、「天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」とあるように、太陽の輝きが星の輝きの復活体を蹴散らしてしまう、復活体は二度と死ぬことがないのだから、「焼き尽くした」という表現は、この世のハルマゲドンと重ねているためである。
最後のハルマゲドンにおいては、星の輝きの復活体は光で責めさいなまれ、分かりやすく言えば、暗視ゴーグルをかけた人にストロボ光線を当てたような状態になる。
「私はまた、大きな白い玉座とそこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げていき、行方が分からなくなった。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第20章11節)
「大きな白い玉座」に座るのはヤハウェであり、ラーであり、アラーであり、ヴィシュヌであり、クリシュナであり、カルキであり、観音菩薩であり、弥勒菩薩であり、天照大神であり、ククルカンであり、ケツァルコアトルであり、その他、無数の最高神の名を持つイエス・キリストである。
造物主の前では、いかなる被造物も霞んでしまう。福千年が終わり、最後のハルマゲドンが終わった直後、いよいよ全人類一人一人の裁判が行われる。聖書学でいう「最後の審判」である。
「いくつかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」(新約聖書「「ヨハネの黙示録」第20章12~13節)
この記述は、全ての亡者を裁く閻魔大王の前に一人一人が引き出されるシーンを彷彿させる。最後の審判は、閻魔鏡に映る生前の時分の所業を見せられて、行く末が極楽か地獄かを決められる場と思えばいい。
閻魔大王のもう一つの顔は、「地蔵尊」である。地蔵尊は昔の日本なら村境に立っていた石像で、子供の守り尊として親しまれてきた。実は、この閻魔大王=地蔵尊も、イエス・キリストの別名である。閻魔大王になるか地蔵尊になるかは、一人一人の行い次第ということである。
バプテスマを受け、すでに悔い改めた者は責められることはない。しかし、最後までかたくなだった者は、その責任を負わなければならない。
しかし、どんな人でも善行をしてきたはずであり、それを神は取り上げてくれるということである。つまり減点法ではなく、加算法で裁判が行われるのだだから最後にはすべての人が納得して神を褒め称えるのである。
*(飛鳥氏の視点)
「天界の大戦争」は、「善悪の大戦争」ともいえる。なぜなら、神と悪魔が戦ったからである。結果、天界に神が住み、地上に悪魔が住むことになった。
「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使い立も応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使い立も、もろともに投げ落とされた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第12章7~9節)
人は悪魔が支配するこの世で、真に神の世界に戻るか否かを試される。悪がなければ善を知ることはできないからだ。この世界でどう生きるかで、次の行き先が決まる。
前世は霊の状態での善悪の選びだったが、この世では肉体の状態での善悪の選びとなる。だから個人の葛藤があり、戦いがある。
ルシファーとなった悪魔は、悪霊を駆使して神など存在しないと教え、悪魔もいないので何の心配もなく、好き勝手にして自由に生きろと誘惑する。その教えに乗ったら最後、悪い行いに歯止めが利かなくなり、他人を貶めたり、害を及ぼしたり、殺したりするようになる。
因果応報は地上でも存在するが、死後の方が大きく降りかかってくる。よほど悔い改めなければ、この世の罪業は消えることなく付きまとう。
この世の罪が極まった時、人類は互いに殺し合う最終戦争へと突入する。これがハルマゲドンである。
最終戦争に善悪はなく、全てが悪である。唯一存在する善は、最後の刈り取りを行う原始キリスト教会の教えであり、エルサレムで伝導する2人の預言者の言葉である。
悪に染まった人々は、悔い改めることなく2人を罵倒し、世界からいなくなれと願うようになる。そして世界はその因果で消滅する。
ノアの時代は水による絶滅だったが、今度は灼熱の業火によって滅ぼされる。悪人は地上から蒸発して消え失せ、地上は勝利した者が継ぐことになる。