(50)イナゴの正体
それでは、「煙の中から、イナゴの群れが地上へ出てきた」の「イナゴ」は、何を意味するのだろうか? 聖書において、イナゴは穀物を食い荒らす害虫として描かれるケースが多い。だから、地上の人々にとってあまり良い兆しとは思えない。
「これをあなたたちの子供に語り伝えよ。子孫はその子孫に その子孫は、また後の世代に。かみ食らうイナゴの残したものを 移住するイナゴが食らい 移住するイナゴの残したものを 若いイナゴが食らい 若いイナゴの残したものを 食い荒らすイナゴが食らった。」(旧約聖書「ヨエル書」第1章3~4節)
イナゴには「戦争」のイメージもあり、聖書では軍隊の象徴として登場することもある。このことから見ても、イナゴには不吉な影が付きまとう。
「万軍の主は、御自分にかけて誓われた。「私は必ず、イナゴの大軍のような人々で お前を満たす。彼らはお前を攻め、叫び声を上げる。」(旧約聖書「エレミヤ書」第51章14節)
イナゴは空を飛ぶ生物である。そのイナゴに、サソリの持つ力が与えられたというのだから、これほど危険な生き物はない。ヨハネは黙示録の中で、イナゴのことを次のように記している。
「イナゴは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を与えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第9章4~5節)
「額に神の刻印を押されていない人」がいるということは、地上には神の刻印を持つ人々(神権者)もいるということだ。イナゴに象徴される生き物は、そのように神権者たちを見分けるという。裏を返せば、そうではない人々にとって、イナゴは殺戮の天使のように恐ろしい存在となるだろう。
これはモーセの時代に起きた「過ぎ越し」と似ている。
「主がエジプト人を撃つために巡る時、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って。あなたたちを撃つことがないためである。」(旧約聖書「出エジプト記」第12章23節)
闇の中を飛び回るイナゴは不気味である。イナゴで象徴される生き物に、毒で撃たれた人々はどのようになるのか? ヨハネはその有様を次のように続けている。
「イナゴが与える苦痛は、サソリが人を刺した時の苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げていく。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第9章5~6節)
「死ぬことができず」という表現は異様である。毒がどのようなものかは後に推測するとしても、死ねない状態というのは、神経が犯されて体を動かすことも困難な有様を言うのだろうか? あるいは全身が焼け爛れて身動き一つできないのか?
普通のイナゴは武器を持たないが、黙示録のイナゴは武器を持っている。ヨハネはそれを「サソリの毒」と表現している。しかも、毒を放つ相手を見極める目と知識を持っている。それは何の象徴なのだろうか?
「イナゴの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、額には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、サソリのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第9章7~10節)
これは、どう読んでも昆虫のイナゴではない。明らかに知能の高い生き物で、胸当てを着たり頭に冠に似たものをかぶるというのだから、人と酷似する存在である。いや、人である。事実、ヨハネは「顔は人間のようであった」と記し、「髪は女の髪のよう」とも記している。
2000年前に現代の最新兵器を見たら、似ているものに喩えるしか方法がない。だから、ミサイルは「蛇」や「針」、ヘルメットを「金の冠に似たもの」、ジェットエンジンの轟音を「戦場に急ぐ戦車の響き」で表現したのだろう。
戦闘機や爆撃機のパイロットが被るヘルメットは、大きな複眼を持つ昆虫そっくりで、特に最新の暗視装置や、頭部を動かすだけで機体の方向を変えたり、ミサイルを発射できる未来型ヘルメットは昆虫そのものだ。ヘルメットの口元から伸びる呼吸器装置も「獅子の歯」のようで、「馬」の顔のように突き出している。「胸当て」は、戦闘機の超高速と急ターンから発生する巨大Gに耐えられる生命維持装置であり、現代の最新兵器の象徴と解釈して間違いない。
このイナゴが軍人であるならば、必ず敵である相手が存在する。ここではその相手の方が重要かもしれない。両義預言は、この時にこそ力を発揮する。
「イナゴは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンと言い、ギリシャ語の名はアポリオンという。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第9章11節)
「底なしの淵」は聖書学的に「黄泉」や「獄」を示し、「地獄」を意味することがほとんどである。よって、底なしの淵の使いのアポリオンは地獄の蛇で、サタンであるルシフェルを意味する。
釈迦が末期に唱えた聖者の住む「シャンバラ(アルザル)」の入口は北の果てにあるという。北の果てと言えば常識的には北極だが、北極海には氷があるだけで大陸は存在しない。また、聖書では、失われたイスラエル10支族が北の果てに向かったとある。つまりアルザルである。そして聖書学的にはアルザルは地上にはなく、他の国とも接していないという以上、地下世界ということになってくる。つまり、磁力線が潜り込む北極にプラズマ・トンネルが口を開くと、亜空間世界アルザルに向かうことができると考えられる。
そこを管理するのが黙示者ヨハネで、彼は地下の亜空間世界と地上を行き来しているとされている。そこに潜む蛇は聖なる蛇で、それはサタンではなくイエス・キリストである。イエス・キリストもサタンも同じ蛇で象徴されるから、ややこしいのだ。この区別には知恵が必要で、一歩間違うと間違った蛇に行き着くことになる。アポリオンも同様である。