(46)「記紀神話」と「聖書」の太陽系創造
日本にも同じことが書き記されている。「記紀神話」には天照大神と須佐之男命の問答があり、「古事記」では、「二神の誓約生み」にそれが記されている。
「ここに天照大御神詔りたまはく、「然らば汝の心の清く明きは、いかにして知らむ」とのりたまひき。ここに速須佐之男命答へて白さく、「各うけひて子生まむ」とまをしき。」(「古事記」「二神の誓約生み」)
高天原に戻ろうとした須佐之男命は、乱暴を止めようと弓矢をもって天照大神が待ち構えていたために、足止めを食らう。そこで須佐之男命は、乱暴狼藉をする気は毛頭ないと天照大神に誓約し、心を開く証拠に自分に属する子供を見せると持ち掛けた。天照大神も同じく自分に従う子供を見せると答えた。2神は、天の安河で相対して子を生んだ。生まれた子供の数は、天照大神が3柱、須佐之男命が5柱である。実は、ここにカッバーラが仕掛けてある。
「ここに天照御大神、速須佐之男命に告りたまはく、「この後に生れし五柱の男子は、物実我が物によりて成りき。かれ、自ずから吾が子なり。先に生れし三柱の女子は、物実汝の物よりて成りき。かれ、すなわち汝の子なり。」(「古事記」「二神の誓約生み」)
天照大神が5柱、須佐之男命が3柱と、この数が入れ替わっている。これが鏡による反転の仕掛けである。これで天照大神の子が5柱で、速須佐之男命の子が3柱となり、高天原から地に落とされる速須佐之男命の勢力が天照大神のそれの8分の3となり、3分の1に極めて近い数になった。とはいえ、8分の3は3分の1に近いとはいえ同じではない。こじつけにも見えるだろう。
そこで、もう一方の国史「日本書紀」を見てみると、別の数が見えてくるのである。
「その六柱の男神をとって、日神の子として高天原を治めさせた。日神が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に降らせられた。」(「日本書紀」「素戔嗚尊の誓約」)
「日本書紀」には天照大神が6柱とあり、須佐之男命が3柱と記されている。つまり、日本では、ルシフェルに従って落とされた霊の数が3分の1と、比喩をもって明示しているのだ。
「神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(旧約聖書「創世記」第1章3~5節)
天地創造の第1日の「光あれ」という言葉は、太陽が創造されたことを意味するのではない。光であるヤハウェ(イエス・キリスト)がルシフェルに勝ち、闇のルシフェルが地に落ちて、光と闇が分かれた宣言なのだ。この世の全ては、そこから始まる。
「イエスは再び言われた。「私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(新約聖書「ヨハネのよる福音書」 第8章12節)
光はイエス・キリストの象徴である。だから天地創造の最初の言葉は、ヤハウェを召す天の父の宣言であり、無から有が誕生するという非科学の極み「ビッグバン」では無かった。その証拠に、太陽の出現は「創世記」では「第四の日」に記されている。
「神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天は大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった…(中略)・・・第四の日である。」(旧約聖書「創世記」第1章14~19節)
このことはカッバーラを知らないと気づかないし、その意味も分からない。
20世紀も終わる頃、ハップル宇宙望遠鏡は、新しく誕生した恒星を「M16」の星間物質の縁付近で発見した。それも一つや二つではない。恒星が星間物質から輝きながら顔を出すシーンは圧巻で、恒星の誕生が暗黒の星間物質内で行われていることが証明されたことになる。
星間物質の内部まではわからないが、宇宙がプラズマで支配されている以上、恒星の誕生にプラズマは欠かせないはずだ。
プラズマは、電波や様々な宇宙線が交差するポイントに発生する高熱のガスである。プラズマは高度に電離した状態で、回転しながらダストを静電気で吸着させ、やがて巨大化していく。こうして巨大な灼熱の超弩級天体が誕生し、それが恒星と考えられる。
早稲田大学の大槻義彦名誉教授は「プラズマが吸着するダストにより、鎧を付けたように固くなる」と語っている。
飛鳥氏は、太陽系創造においては「プラズマ宇宙論」を支持している。なぜなら、プラズマは光であり、宇宙のほぼ100%を支配するからである。太陽がプラズマで創造されるという理論は、アカデミズムが唱える「太陽系円盤モデル」とは相反するが、太陽系円盤モデルよりはるかに可能性が高い。
アカデミズムは、微細な固まりの「微惑星」という言葉を作り出し、太陽系創造の入口論として、必ず微惑星からスタートする。これが衝突を繰り返すことで徐々に巨大な天体を形成したといい始めたのである。しかし、これは重要な根幹をごまかすためのご都合主義で、微細であれ巨大であれ、ガスから物質が誕生しない点では意味がない。
万歩譲って、微惑星の衝突で天体が形成されるとしても、太陽から遠く離れたところにも巨大惑星が存在することの説明がつかない。あらかたの微惑星が、中心で回転する巨大な太陽に引き寄せられるから、ガスや微惑星の密度は、太陽から遠くなるほど希薄になる。その上、微惑星の公転速度は太陽から遠いほど遅くなり、惑星形成に欠かせない微惑星同士の衝突の可能性をさらに減少させる。ところが、実際には太陽から遠く離れた位置に木星、土星、海王星と言った巨大惑星が実在している。これは明らかな矛盾である。
もっと言えば、最近のスーパーコンピュータの計算で、ガス、塵、小石、微惑星は、すべて巨大な太陽の重力に引き寄せられてしまうことが判明している。つまり、太陽系円盤モデルでは、惑星どころか矮惑星、いや小惑星の誕生すら説明できないことになる。このように、アカデミズムの太陽系円盤モデルは根底から崩壊している。
そうなると、木星などの巨大惑星は、全て太陽の超弩級火山から噴出したと考えるのが最もわかりやすいし、合点がいく。地球が木星から飛び出したようにである。
第1のラッパが鳴った時の地上は恐ろしい状況に陥っている。全土の3分の1が超高熱プラズマで焼かれ、古代インドのモヘンジョ・ダロの平原に残されたガラス地形のように、岩さえ溶けてしまう。こういう最中、地殻変動が襲えば、たとえ生き残った人々でも無事では済まされない。