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カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(42)

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(42)イエス・キリストの復活体と「竹内文書」の関係及び古代日本の状況

 昭和12年(1937年)、山根キク(菊子)は、イエス・キリストが日本で死んだと主張する「光は東方より」という本を出した。クリスチャンにして天津教の信者でもあったキクは、竹内巨麿に傾向して「竹内文書」を信奉していた。しかし、キクはカッバーラの仕掛けを知らず、「竹内文書」をそのまま読み取ってしまったために、大きな過ちを犯した。

 「竹内文書」にある、身代わりで磔刑に消えたイエスの弟イスキリという名は、ユダヤのどこにも記録がなく、イ□ス・キリ□□の語呂合わせに過ぎない。

 カッバーラの仕掛けられた「竹内文書」の謎解きは、飛鳥氏の著書「竹内文書と月の先住宇宙人」で公開してる。

 とはいえ、イエス・キリストは復活体として、確かに日本を訪れていた。そのことを暗示する内容が新約聖書に残されている。

「私には、この囲いに入っていない羊もいる。その羊をも導かねばならない。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第10章16節)

 日本人はセムの末裔であり、カッバーラが存在する国である。聖書を土台にした「記紀」は日本国の正史として、建国の根幹に位置付けられている。

 「日本書紀」の第33大・推古天皇の頃に登場する厩戸豊聡耳皇子は、聖人として知られる聖徳太子のことである。最近の学校教育は聖徳太子と言わず「厩戸皇子」と教えるが、ウマヤドは「馬宿」で「馬小屋」を指し、そこで生まれた聖人なので、太子の死後、諡号として聖徳太子と称したとされる。このことはイエス・キリストと太子の妙な一致として、よく引き合いに出される。聖徳太子には政治家とは別の顔もあった。そのことを「日本書紀」は以下のように記す。

「厩戸豊聡耳皇子…(中略)・・・兼知未然」(日本書紀」「推古天皇 豊御食炊屋姫天皇」)

 国史では、聖徳太子を「兼ねて未然に知ろしめす」能力があったと記している。未然とは預言のことで、「政治を先読みしてうまくやる」程度の意味ではなく、「預言者だった」と断言しているのである。

 実際、「法隆寺」と「四天王寺」には、聖徳太子の預言書「未来記」が伝わるという。「太平記」には、楠木正成が四天王寺で、「未来記」を見たとあり、それが正成の後醍醐天皇への忠誠を誓う生き様を決定したという。

 西暦607年、太子は中華思想を掲げた隋の煬帝に対して、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と、対等以上の書を認め、小野妹子を隋に遣わせたとされる。これは隋の記録「隋書倭国伝」に記されていることで、日本側の作り話ではない。もし正史が正しければ、日本にも預言者がいたことになる。

 カッバーラを保持する日本人は、血統的イスラエル人の可能性がある。だから、14万4000人のイスラエル12支族の原始キリスト教徒が、全て白人で占めるとは思えない。

 ユダ族の末裔がシルクロードを経由して、日本に渡来した可能性は十分にあるからである。

 昔、アイヌは蝦夷と呼ばれた東日本側にいたが、和人である古墳人との同化を拒んだため、坂上田村麻呂に代表される蝦夷征伐を受け、最後は北海道へと追いやられてしまう。

 アイヌの着物の模様と同じ縄目文様が縄文式土器に多数あり、アイヌが用いるワラビテ刀や、御神体の削りかけ(イナウ)も、フォッサマグナ以東でしか出土していないことから、アイヌの領地は東日本側だったことは明らかだ。

 一方、西日本側では弥生時代を築いていたのが琉球民族で、後に熊襲として和人から征伐の憂き目に遭い、最終的に沖縄を含む南方の島々へ追いやられてしまう。倭人であるアイヌと熊襲の外見的特徴は刺青で、古墳時代を築いた大和民族(和人)には刺青の習慣はなかった。これだけでも民族が違うことはわかる。

 アイヌと熊襲は共に古代アメリカから海流に乗って太平洋を越えた人々で、最初は分かれていた東日本側と西日本側の陸塊にわたり、縄文文化と弥生文化を築いた。両者は風俗習慣や宗教観も酷似し、最先端の遺伝子調査からも、両者の遺伝子距離が非常に近く、特にアイヌはネイティヴ・アメリカン(インディアン)と同じ遺伝子と判明している。そのため、両者はアメリカ大陸か、環太平洋のどこかで枝分かれしたものと思われる。

 一方、古墳時代を築いた大和民族の遺伝子は、アイヌとも琉球民族とも違っているため、本州を中心に生活する現代の日本人のほとんどは、古墳時代に大挙して渡来したモンゴロイドの末裔と考えられる。

「魏志倭人伝」に邪馬台国のことが記された西暦240年当時、すでに両陸塊は衝突した後で、衝突による造山運動により日本アルプスが形成され、フォッサマグナが誕生したと思われる。

 結果、2つの陸塊が陸続きとなり、邪馬台国と狗奴国の勢力争いから戦争状態に入った。それが「魏志倭人伝」が伝える「倭国の大乱」である。それは弥生文化圏と縄文文化圏との戦い、すなわち琉球民族(熊襲)対アイヌ(蝦夷)の戦争だった。


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