(41)復活体としてのイエス・キリスト
救われる人はイスラエル12支族だけかという問題だが、実は黙示録には続きがある。
「この後、私が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手にナツメヤシの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第7章9~10節)
ここに「白い衣」を着た大群衆が記されている。その数は無数で、民族、種族、国境さえ超えているとある。そうなると14万4000人のイスラエル12支族の人々は、イエスを救世主(キリスト)と認めるイスラエル人の末裔という意味になり、救われる人数ではないことが分かる。
あらゆる民族と言っているのだから、そこには当然ユダの末裔(ユダヤ人)も含まれているはずだが、彼らは一神教で、イエス・キリストを未だにメシアと認めていない。そのようなユダヤ人が1万2000人も、原始キリスト教へと改宗するとは思えない。であれば、1万2000人のユダ族とはいったい何を意味しているのだろうか?
日本人には、ユダヤ人が白人だと思っている人が多いが、それは誤解である。旧約聖書には、イスラエル人はセムの末裔(アジア人)と明記されている。だから、本当のユダヤ人は日本と同じモンゴロイドなのである。
一般にユダヤ人と呼ばれている人々は、白人が主流だが、彼らのルーツは、紀元8世紀に黒海付近に生存した「ハザール汗国」にあり、そこにはトルコ系白人(コーカソイド)が住んでいた。南に国境を接するキリスト教国「ビザンティン帝国」と、北のイスラム教国「ウマイア朝」から共に同盟を強く求められていたハザール汗国は、どちらと同盟をむすんでももう一方から攻め込まれると判断し、そこで一計を案じ、どちらのルーツでもあるユダヤ教へと、国を挙げて改宗したのである。かくして白人のユダヤ教国が誕生し、彼らは全員ユダヤ人と名乗った。
今でも民族に関係なくユダヤ教に改宗すればユダヤ人として認められる。だから、黒人のユダヤ人も存在する。
西暦11世紀ハザール汗国はモンゴル帝国に滅ぼされ、彼らは難民となって東欧に住みついた。その後、ホロコーストの憂き目にあった彼らの子孫は、第2次世界大戦後、シオニズム運動を起こしてイスラエルを建国する。
このような歴史的経緯から、血統的アジア系ユダヤ人を「スファラディー系」といい、白人系ユダヤ人を「アシュケナジー系」として分けられている。つまり、血統的ユダヤ人に属するイエス・キリストは、限りなく日本人に近い顔を持っていたことになる。日本人はキリスト教と言うと、ヨーロッパの宗教と思いがちだが、実際にはアジアで発生した宗教であり、ユダヤ教もアジアで生まれている。ダビデの血統に、ヨセフの末裔に白人の血が混じっていない限り、イエス・キリストは黒髪の黒い瞳だったはずである。
ただし、復活体では容姿が変わった可能性が高い。弟子たちでさえ、復活したイエス・キリストを最初は見分けられなかったからだ。
「その後、彼らの内の二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿で御自身を現わされた。」(新約聖書「マルコによる福音書」第16章12節)
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった。」(新約聖書「ルカによる福音書」第24章15~16節)
イエス・キリストの名を騙った偽者と疑う人も出てきそうだが、そうではない。復活したイエス・キリストでないとあり得ない特徴と奇跡が付きまとっていたからだ。
「さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけられてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにきて当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第20章26~27節)
イエス・キリストはドアをノックして入って来たわけではない。当時、使徒たちは、サンヒドリンや律法学者の手先から身を隠していた。ドアも窓を閉め切って隠れていたところに、突如としてイエス・キリストが現れたのだ。彼らは最初、亡霊と思ったに違いない。だから、「あなた方に平和があるように」と諭し、「安かれ」といって、彼らを落ち着かせる必要があったのだ。つまり、復活体は神と同じ光であり、プラズマのように壁を透過できるのである。
復活体は本来なら無傷である。しかし、イエス・キリストに関しては、メシアとして、復活した証拠を残すため、両手のひら2か所に釘跡が、右脇腹1か所に槍で刺された跡が残され、更に十字架に吊るされた重みで手のひらが引きちぎられないよう、腕のある部分にも釘が打ち込まれていた。
最初、復活を信じられなかった十二使徒も、自分の目と指でそれを確かめ、現れたのはイエス・キリストに間違いないことを確信した。だからこそ、彼らは殉教さえ恐れずに伝道を開始したのである。