(40)死後の魂の生末
魂の実在とその行く末について検証してみる。
医学の進歩によって、昔なら死んでいた患者が蘇生するケースが増えている。こうした人の中には、霊界を垣間見たという人もいて、近年、臨死体験を報告する人たちも増えている。
突然の事故死、長患いの末の病死など、死の迎え方は様々だが、それでも臨死体験者の報告には共通のパターンが存在する。しかも、その記憶は国、民俗、宗教,性別、年齢に関係なく、ほとんどが同じなのである。
大まかではあるが、次のようなプロセスを経るが、必ずしも臨死体験者がすべてを経験するわけでもない。
①人は死を迎えた瞬間、肉体から抜け出す体験をする。②暖かい感覚が心を支配し、何とも言えない幸福感を味わうという。やがて、③意識が地上を彷徨いながら、壁や他人の体を透過する体験をする。④思いを抱く人を心に浮かべた瞬間、その人の前にいることに気づく。→それを「ジャンピング」という。やがて、⑤「トンネル体験」をする。→トンネルのような空間に突入し、そこをものすごい勢いで通過する。⑥気づいたときは、見たこともない美しい黄色い花々が地平の果てまで広がる花園に立っており、⑦はるか彼方に自分を迎えに来た人たち(すでに亡くなった家族や親族の場合が多い)を目にする。⑧多くの臨死体験者は、この段階で自分を呼ぶ声に振り返り、そのまま生き返っている。
中にはそこからさらに進んで、⑨「光り輝く存在」と遭遇する者もいる。→その存在は「地上で成すべきことをしてきたか?」と尋ねてくるというが、民族や宗教の違いにより、それがイエス・キリストという者もあれば、観音菩薩だったという者も、アラーだったという者もいる。
あの世の手前に川があるという者もいるが、大体は勉術のような体験記憶を持って行き返ってくる。中には自殺をして生き返った臨死体験者もいるが、その場合は、これと違う体験をしている者が多い。
死の直後、深い闇の底に落ち、そこで大勢の霊たちと一緒にいる自分に気づいた瞬間、自分が神の意思に逆らったことを直感するという。
こうした臨死体験の証言に対する学者の反応は冷淡である。「死を迎えると血圧が下がり、血流も落ちて脳に血が回らなくなる。だから、脳は正常な判断ができず、幻覚や夢を見せる。ところが、聴覚だけは最後まで生きているので、その幻覚や夢は集まった人たちの声に影響されたもので、その声に呼び戻されて目を覚ます。それだけのことです」
しかし、様々なことがわかっている現在、一見科学的に思えるこの理屈は通用しなくなっている。例えば、「PET」と言う脳血流測定装置は、その説を完全に否定した。その装置で、人が夢を見ている状態の脳内血流量を測定すると、夢を見始めた途端、一気に後頭葉の血流量が激増することが分かったのである。つまり、血が脳に回らなくなる状態では、幻や夢を見ることができないのである。
さらに、脳の側頭葉部分にある深い溝(シビリウス裂)に電極を当て、そこに微弱の電流を流すと、対外離脱現象が起きることも判明している。今や誰でも肉体を抜け出す体験ができるのだ。
この実験が初めて成功したのは20世紀初頭のカナダにおいてである。この時は被験者の頭蓋骨の横に穴を開けて電極を差し込んだのだが、最近は、特殊なコイルを巻きつけたヘルメットを被験者にかぶせる方法で、それを成功させている。マイケル・バーシンガー教授は、電磁波を使って頭蓋骨の外からシビリウス裂を刺激することで、体外離脱に何度も成功したのである。
このことは、人は霊と肉体でできていることを証明している。そして、全ての宗教が死後の世界が存在するとしており、聖書においては、前任の霊はパラダイスへ行き、悪人の霊は暗黒の獄に落ちると教えている。
(飛鳥氏の視点)
カッバーラの世界観では、我々が住む世界は「牢獄」である。我々は試しを受けるため、光と逆の世界に送られてきたのである。この世界は闇が支配するところで、陰陽なら陰の世界だ。だから、宇宙は闇と絶対零度(摂氏マイナス273度)が支配する。光は一部でしかない。一方、神の世界は光の渦巻く陽の世界である。
「イエスは再び言われた。「私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第8章12節)
人は低い次元から高い次元を求めて成長する。闇の世界から、光である永遠を求めて生命の樹を上っていくのだ。だが、途中で高慢に陥り、ルシフェルと同じように生命の樹から落下して、逆さに伸びる死の樹にたどり着くものも少なくない。
その状態の者は、物事の全てを逆さに見て、善を悪と呼び、悪魔を神と見る。だから、光は彼らには届かず、永遠に獄に囚われたままに置かれる。そこは混乱と混沌の世界だ。 神の世界は、そんな世界とは逆に、真理である光に照らされ愛が支配する 統一感のある世界を云う。