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カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(21)

(21)ノストラダムスと神権の関係

 ノストラダムスが神権を有していたかどうかだが、ヨハネを除く12使徒の殉教で途絶えたことが明白である以上、ノストラダムスが神権を継承するには、ヨハネが直接に与えるか、再び神権を回復する業が行われる以外に方法がない。

 実は、モーセの頃に神権が枝分かれしていて、もう一つ別の神権が生まれていた。それは神殿で祭儀に従事するレビ族にだけ与えられる神権だった。

「アロンと同じように祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう・・・(中略)・・・このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。」(新約聖書「ヘブライ人への手紙」第7章11~15節)

 アロンはモーセの兄で、神殿の儀式に従事するため、約束の地カナンで土地などの嗣業を持たないレビ族だった。そのことから、彼らの神権を「レビ神権」と呼ぶ場合もあるが、ノストラダムスはイッサカル族の末裔なので、レビ神権を保持するはずはなく、よって神権がなかったことになる。

 しかし、旧約時代の女預言者の例もあるため、神権の無い預言者を偽者と決めつけることはできない。たとえ神権が無くても、ノストラダムスにカッバーラが継承されていたことは明白である。そのカギを握っていたのは、ノストラダムスの曾祖父のジャン・ド・サン・レミと考えられ、善王と呼ばれたルネに使える侍医だった。

 レミはユダヤ密教に通じた有名なカッバーラリストで、神秘学の奥義を極め、星の運行にも深い知識があった。ノストラダムスを医術の世界に向かわせたのは、レミの影響が大きかった。

 ノストラダムスにカッバーラの知識があったことをどうして断言できるのか? 「諸世紀」の冒頭2題の4行詩に、その答えが隠されている。

「深夜秘密の部屋に入り 一人真鍮の三脚椅子に休む 淡い炎が静寂の中に沸き上がり 真実の出来事を自分に告げる」(「諸世紀」第1章1節)

「神から受けた杖を手に ブランクスに自分の脚と杖を水面に浸し、杖を持つ手は畏敬におののき期待する 神聖なるかな、神々しい光、絶対神の御魂が、そこにおわす」(「諸世紀」第1章2節)

 この2つの4行詩は、一般にノストラダムスが、いつ、どこで、どんな方法で予言をしていたかを紹介する箇所と思われている。

 深夜、家族が寝静まった後、ノストラダムスは一人できしむ階段を上がり、2階の書斎へと消えていく。誰にも見られてはならないのでドアに鍵をかけ、用意しておいた水を桶に両足を浸け、三脚椅子に腰を下ろす。

 その後、ノストラダムスは不思議な呪文を唱えながら、手に持つ杖の先でゆっくりと水面をかき回す。すると、蝋燭の淡い光を受けた水面が揺らぎ、異様な光が水中から浮かびだして未来の光景が映し出される・・・。

 確かにこうした光景はミステリアスでいかにもそれらしいが、それはカッバーラを知らぬものが考えることである。

 「諸世紀」の研究者は、欧米文化の解釈に翻弄されている。欧米にはアジア文化圏とは異なり象徴と比喩の習慣がなく、研究者のほとんどがカッバーラが何たるかも知らない。

 ノストラダムスが予言者であれば、必ずカッバーラを身に着けていなければならない。そうでなければ予言などできず、当たるも八卦の単なる占い師になってしまう。

 では、2つの4行詩のどこにカッバーラが仕掛けられているかを解説する。

 冒頭の「真鍮の三脚椅子」は、生命の樹図にある3本の柱を示している。「杖」は、預言者の象徴で、自分を予言者であると宣言するために使っている。また、「足を水面に浸す」とは、自分の前に現れる絶対神が、イエス・キリストであることを宣言している。

「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を2つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いたところを通ることができる。」(旧約聖書「出エジプト記」第14章16節)

「それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いでふき始められた。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第13章5節)

 新約聖書には、イエス・キリストが自分の弟子である証拠に、彼らの足を洗ったことが記されている。これを「洗足の儀式」といい、日本で悪事から立ち直ることを「足を洗う」というのは、そこから来ている。

 さらに「ブランクス」は、ポセイドンが手に持つ「ブランクスの杖」の意味で、先が三又になっている。これで杖が生命の樹図であることが裏付けられる。「秘密の部屋に入り」は、山水の垂訓で語られたイエス・キリストの言葉をそのまま用いている。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(新約聖書「マタイによる福音書」第6章6節)

 このように、先の2題の予言詩はカッバーラであることが明らかである。そして「諸世紀」は冒頭からすべて予言詩だから、この2題も予言詩で欧米人が考えるように予言のやり方を紹介しているわけではない。

 何を予言しているかというと、将来、三位三体を掲げる原始キリスト教会が復活し、三又の杖で象徴される預言者が召されることの宣言なのである。前述したもう一つの聖書も、彼が持つことになる。

*(飛鳥氏の視点)

 「イスラエルの王権」は、イスラエルの三種の神器すなわちモーセがシナイ山で授かった「十戒石板」、モーセの兄のアロンの持つ「アロンの杖」、荒れ野に下ったマナを入れた「マナの壺」を指す。ソロモン王の頃に建てた「ソロモンの神殿」に、それらが置かれたからである。伝承では、マナの壺は12支族のガド族が継承してきたイスラエル王国に持ち去り、やがてアロンの杖も消え失せ、最後の十戒石板を入れた契約の聖櫃アークも消えてしまったとされている。

 紀元前586年、新バビロニア王国が南ユダ王国を滅ぼし、神殿を破壊したとき、持ち去った戦利品にリストには、三種の神器もアークの記述もなかった。聖書外典(アポクリファ)によると、預言者エレミヤがアークを運び去ったと記されている。

「そこに到着したエレミヤは、人の住むことのできる洞穴を見つけ、そこに幕屋と契約の箱と香壇を運び込み、入り口をふさいだ。」(聖書外典「マカバイ記 二」第2章5節)

 日本にも三種の神器がある。「八咫鏡」「草薙剣」「八坂ニノ勾玉」である。これらは王権の象徴とされ、実際に見た者は古代にしかいない。「保暦間記」には以下の興味深い内容が記されている。

 平氏との戦いに勝利した後、都に戻った源氏の武士たちが、皇居の内侍所に入った時、そこにあった「辛櫃(唐櫃)」に手をかけた。蓋を取った瞬間、侍たちの両眼と口から鮮血が噴出し云々。その辛櫃こそ、三種の神器が入っていた黄金の「神璽」だと考えられる。同じ祟りをアークも起こしているからだ、

「モーセはそれを掟の幕屋の主の御前に置いた明くる日、モーセが掟の幕屋に入っていき。見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。」(旧約聖書「民数記」第17章22~23節)

 また八咫鏡にはへブライ文字が刻まれているという噂がある。人が真の姿を見るには2枚の鑑が不可欠で、合わせ鏡を一対とする。「伊勢神宮」より古く、格式が上とされる元伊勢「籠神社」には、記紀神話に登場する「沖都鑑」と「辺都鏡」の伝承があり、その奥宮には黄金の「真名の壺」が鎮座したという。つまり、2枚の八咫鏡は「十戒石板」となり、八坂二ノ勾玉はマナの壺となる。事実、勾玉の「ム」の元字は壺である。これらのことから、日本にイスラエルの三種の神器とアークが隠されていると思われる。


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