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カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(19)

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(19)「神の戦車(メルカバー)」が降りてくる!

 黙示録は玉座を囲む4つの生き物について言及している。

「この玉座の中央とその周りに4つの生き物がいたが、前にも後にも一面に目があった。第1の生き物は獅子のようであり、第2の生き物は若い雄牛のようで、第3の生き物は人間のような顔を持ち、第4の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第4章6~7節)

 玉座を囲む四方にいる4つの不思議な生き物とはあくまでも象徴であり、現実の生き物ではない。カッバーラでは大きな秘密を隠す場合、よくこうした比喩を用いる。日本には「背中にも目がある」という表現があるが、無数の目を持つ生き物というのはまさにそれで、視野が広いことを示している。カッバーラでは、玉座を取り囲む4面の聖獣のことを「メルカバー(神の戦車)」と呼ぶ。預言者エゼキエルも4つの生き物について言及しているが、これは黙示録が記しているものと同じ生き物だ。

「私が見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、4つの生き物の姿があった。」(旧約聖書「エゼキエル書」第1章4~5節)

 猛烈な風を起こし、火を放つというのだから、とても平和な状態にあるとは思えない。4つの生き物に関わるものが神の戦車と名付けられたのは、このような戦いに関係しているからだ。事実、黙示録でも終末に現れる戦車としての扱いで、この種の生き物が登場する。では、問題のメルカバーについて、もう少し詳しく見てみる。エゼキエルはメルカバーについて以下のように続けている。

「その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれ4つの顔を持ち、4つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には4つの方向に人間の手があった。4つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。」(旧約聖書「エゼキエル書」第1章5~9節)

 なんとも異様な風貌である。これが比喩でなかったら、メルカバーは完全に怪物である。こんな生き物がいたらとんでもないことである。だからこそ欧米の研究者は戦車と表現するしかなく、実際、メルカバーはその表現からして戦争のイメージを伴っている。

 アメリカの「NASA(航空宇宙局)」で、ロケット設計チームのチーフだったヨーゼフ・F・ブルームリヒは、エゼキエル書に記されている戦車を研究した結果、惑星大気圏突入用UFOの可能性を示唆した。彼は、4面の顔をUFOの各部分の装置、足を4本の下に突き出した着陸ギアーとして、具体的な想像図まで描いている。いかにもストレートに科学で反応する欧米人の発想である。しかしそれは、欧米人のやり方であり、アジア文化圏の方法ではない。メルカバーの正体を知るため、エゼキエルの記述をさらに読み進める必要がある。

「その顔は人間の顔のようであり、4つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして4つとも後ろには鷲の顔を持っていた。顔はその様になっていた。翼は上に向かって広げられ、2つは互いに触れ合い、他の2つは体を覆っていた。それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。」(「エゼキエル書」第1章10~14節)

 まるで阿修羅像がいくつも連なったような不気味さだが、カッバーラでいうと、これは生命の樹を暗示する。だから、「炭火」や「松明」の火のような閃光は「稲妻」となって、パス(小径)の間を行き交うのだ。雷の閃光は知識であり知恵である。それがセフィロトを下りながら、同時に各セフィロトを生き交い続ける。翼は、飛翔を意味するケルビムのことで、神の威光を表すカッバーラ的表現である。だから骨格を無視してまで背中を背負わせる必要はない。

 4つの生き物自体が向きを変えないとあるのは、それが「不変の位置」に存するからである。ここで重要なことは比喩にも事実が含まれていることだ。用いる比喩が現実と無関係なら、比喩は意味をなさない。そこで4つの生き物を改めて見てみると、「人、獅子、雄牛、鷲」となり、それぞれ霊長類、肉食獣、草食獣、鳥類の王と呼ばれるにふさわしい風格を備えた生き物ばかりである。

 百獣の王たる獅子は、ピラミッドを含むソロモン神殿の前にも鎮座している。雄牛は聖なる生き物の代表格で、捨てる部位のないことから、イスラエルでは燔祭のために捧げられた。鷲はすべての猛禽類の王で、力強さの象徴である。古代ローマ帝国は鷲をシンボルに用い、ナチスドイツも鷲の武力の象徴とした。現代でも超大国アメリカの象徴に白頭鷲が用いられている。

 人、獅子、牛、鷲は、個々の生き物の世界観を象徴する。それらが絶対神の玉座を囲んでいるのは、それぞれが絶対神にとって重要な意味にある生き物であることを表している。

「私が生き物を見ていると、4つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。それらの車輪の有様と構図は、緑柱石のように輝いていて、4つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。それらが移動するとき、4つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、4つとも周囲一面に目がつけられていた。生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられる時、車輪も引き上げられた。それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が車輪の中にあったからである。生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられる時、車輪も共に引き上げられた。」(旧約聖書「エゼキエル書」第1章15~21節)

 「車輪」をカッバーラでひも解くと、生命の樹で「美」を象徴する「ティファレト」のことを指している。ティファレトは人体の胸付近に当たり、車輪のスポークのようにパスが八方とつながっている。ヒンズー教の「スーリア寺院」の基壇に彫られている8本スポークの車輪も、チベット仏教の「タントリズムの輪」も構造は同じで、ティファレトに端を発している。ちなみに、カッバーラ的には輪廻転生はあり得ない。チベット仏教は、カッバーラの一部を拡大解釈し、輪廻転生の輪にしてしまったのだ。

 このように、メルカバーは複雑な四面体構造を示しており、それぞれの生き物が成長する機会を示唆している。 

 しかし、それとは別に、黙示録が預言書であることを忘れてはならない。黙示録にメルカバが登場することは、我々の元にすでに戦争を意味するメルカバーが降りている可能性があるのだ。その視点から見ると、ある恐ろしい現実が見えてくる。「ノストラダムスの大予言」である。


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