(16)楽園の留まる「24人の長老たち」
ヨハネは霊眼で天の高みに昇り、神の玉座の前に立った。その時、「24人の長老」が座る光景を見る。彼らはみな、「金の冠」をかぶり「白い衣」を着ていた。果たしてこの黙示にどんな意味が隠されているのだろうか?
ほとんどのキリスト教会は、カッバーラを保持していないため、ここから大きく躓いていく。
「また、玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第4章4節)
もし24人の長老の中に、すでに殉教していたペテロを初めとする使徒たちが混じっていたら、ヨハネはそのことを記したはずである。だから、そこには12使徒が1人も混じっていなかった。
ヨハネが見た長老たちは、全員が生命の樹の象徴である金の冠と白い衣を、身に着けていた。つまり、彼らは至高の三角形でイエス・キリストと共に世界を相続する資格のある聖人たちである。だが、彼らはあくまでも「長老」と表現されているから、神ではない。このことから、ここで言う長老とは殉教者であることが読み取れる。
では、そこに座っていないペテロやマタイなどの使徒たちは、そこに居る価値のない殉教者ということになるだろうか?
実は、カッバーラの基本構造で、24という数字は玉座を直近で囲む位置にはない。ゲマトリア(数秘術)でも、12は玉座の近くにあるが24はそこには位置していない。カッバーラでは玉座を囲んでいるのは12,4,2,3である。まず、12にどんな意味があるかというと、旧約聖書にその答えを見つけることが出来る。
「イスラエルの人々は、それぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営する。臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。」(旧約聖書「民数記」第2章2節)
イスラエルには12支族がいた。いわゆる「イスラエル12支族」である。預言者アブラハムの子イサクの子にヤコブがいた。そのヤコブには妻が4人いて、それらの妻が12人の息子を産み、子孫が増えてイスラエル12支族を形成した。
「ヤコブの息子は12人であった。レアの息子がヤコブの長男ルベン、それからシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ラケルの息子がヨセフとベニヤミン、ラケルの召使ビハルの息子がダンとナフタリ、レアの召使ジルパの息子がガドとアシェルである。」(旧約聖書「創世記」第35章22節)
やがて彼らは、ヤコブの子ヨセフの助けにより、未曽有の大飢饉から逃れるために古代エジプトに渡る。その地で奴隷に身を落としたイスラエル人は、モーセに率いられて古代エジプトを脱出する。その後、シナイ半島を彷徨うようになった彼らは、移動式神殿の幕屋を囲むように陣を張って休んだ。それを鳥瞰すると、中央の玉座の周囲を12の宿営が囲むようになる。これが玉座を囲む基本構造の一つである。
では、カッバーラが奥深く根付く日本では、これをどう伝えたかというと、日本人には馴染みが深い子供の遊び「カゴメ唄」である。
カゴメとは籠を編んだ際にできる升目の形のことで、六芒星を意味する。唄遊びは必ず子から子へ伝わるため、カッバーラの隠し方としては最適だ。こういう仕掛けを誰が仕組んだかは、最後で解き明かすことにする。
カゴメカゴメは、目隠しをした一人を真ん中に座らせ、周囲を他の者が囲む。つまり、イスラエルの宿営と同じ形になる。
「かごめかごめ、籠の中に鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀がすべった。後の正面だあれ」→意味不明のように思える「カゴメ唄」にも意味があり、カッバーラで解き明かせば次のようになる。
「イエス、イエス、隠れた天と地の仲保者よ、いつ再降臨なさるのでしょうか。罪が極まった世に、二つの尊いものが統べます。この神意を解き明かしてください」
鶴と亀は長寿の生き物で、永遠の生命を表している。この不老不死の象徴は、生命の樹から生えた2枝を指している。だから、カゴメが一対になって「カゴメカゴメ」となっている。それが一緒に統べるわけだが、多くの人は鶴亀が仲良く滑ると思っているようだ。それは間違いだ。では2枝が統べるとはどういう事なのか?
「人の子よ、あなたは1本の木をとり、その上に「ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子らのために」と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には「エフライムの木であるヨセフ及びそれと結ばれたイスラエルの全家のために」と書き記しなさい。それらを互いに近付けて1本の木としなさい。それらはあなたの手の中で1つになる。」(旧約聖書「エゼキエル書」第37章15~17節)
ユダの木はイスラエルに関わることから聖書を意味する。他方、ヨセフに関わるエフライムの木も聖書を示す。しかし、後者は我々の知る聖書ではない。それは別の枝、つまり、イスラエルから外に移し変えられたヨセフの枝から出る聖書ということだ。旧約聖書と新約聖書という意味でもない。ヨセフの末裔のエフライムから生じた聖書は、イスラエルには存在していないからだ。別の聖書について、預言者エゼキエルは次のように預言している。
「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。」(旧約聖書「エゼキエル書」第17章22節)
聖書学的には、世界が終末に近づいたとされる現代、もう一つの聖書は間違いなく世に出てくる。いや、もうすでに出ている。その聖書は原始キリスト教の別の枝から生じる聖典だから、三位三体を掲げていなければならない。もう一方の聖書を保持する原始キリスト教会の人々は、神権を持ち、高い山の上に本拠地を置くはずである。言い換えれば、読み人知らずの日本のカゴメ唄は、キリストの再降臨に先立って起こるこれらの予兆を教えていたことになる。それも比喩と暗示で預言を伝えるカッバーラという高度な手法を用いてである。