(13)ティアティラへの手紙:「明けの明星」 サルディスへの手紙:「白い衣」
(ティアティラへの手紙:「明けの明星」)
ティアティラ(現:アクヒサル)は、ベルガモンの南東にある小さな街で、そんな小さな町にもかかわらず、ヨハネは最も長い手紙を送っている。
元々は軍事都市だったこの街は、ローマ帝国が小さな小アジア全域を支配してから以降、商工業都市へと変貌した。付近から出土した碑文には、毛織物と亜麻布の生産を初め、染色、革細工、皮なめし業が盛んだったと記されている。
太陽神テュリムノスの神殿があり、多くの人々はその神を崇拝していた。ヨハネは、主の言葉をもって、ティアティラに住む偽女預言者に従わないよう、警告を与えている。
「あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、…(中略)・・・私の僕たちに教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせている。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第2章20節)
黙示録には、イエス・キリストは、この女を病に伏せさせ、この女が産んだ子供を全て打ち殺したとある。むごい仕打ちに聞こえるが、それまでに神は何度も忍耐したと記されている。にもかかわらず、調子に乗ったイゼベルは、それを全く意に介さなかった。年齢は記されていないが、子供たちも母親に輪をかけた傲慢な人間に成長していたと思われる。書簡の長さから見て、ヨハネは彼らを相当危険視していたようだ。ティアテラに住む信徒に、最後まで信仰を貫けば、主は「明けの明星」を与えると記されている。
「勝利を得る者に、私は明けの明星を与える。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第2章28節)
明けの明星とは金星のことで、夜明けが近づくに従って、星たちが次第に姿を消す中で、最後まで輝き続けることから、そう呼ばれる。その金星がイエス・キリストの象徴であることを、イエス自らが述べている。
「私、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなた方に証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第22章16節)
まだ明るさが残る夕暮れ時から明るく輝いていることから、金星には「宵の明星」という別名もある。天空でひときわ明るく輝く金星は、まさに光の代名詞であり、イエス・キリストにふさわしい。つまり、信仰を貫いた信徒には、金星が「メノラー(燭台)」の象徴であることを明かしている。
「常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。」(旧約聖書「出エジプト記」第27章21節)
すでに述べたように、メノラーは生命の樹だから、金星は生命の樹の象徴である。そして、生命の樹はイエス・キリストだということになる。
(サルディスへの手紙:「白い衣」)
ティアティラの南方トモルス山の麓に広がるヘルムス平原にあったサルディスは、5つの主要道路が交差する内陸貿易の要の地だった。毛織物と金細工などの商工業が盛んで、経済的には裕福だったが、その反面、無気力と退廃が支配した町でもあった。
ヨハネの手紙には、背教しつつある支部に対して厳しい警告がしたためられているが、強い信仰を持つ信徒も存在すると告げられている。そういう信徒には、最後に生命の樹の別名である「白い衣」が与えられるという。
「彼らは、白い衣を着て私とともに歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第3章4~5節)
同時に、サルディスの信徒には、生命の樹のもう1つの別名「生命の書」についても伝えている。
「私は、彼の名を決して命の書から消すことななく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第3章5節)
生命の書は、カッバーラの隠されたセフィラ「ダアト」と深く関係する。ダアトで名を呼ばれ、そこで知識が試されるからだ。それには名を告げねばならず、それが命の書に刻まれた天使名なのだ。命の書は白い小石のことでもある。
ダアトを通り抜ける際には、汚れの無い神界の衣とされている白い衣を着せられる。日本では「禊ぎ」を行う際、白衣を身に着けて水を浴びる風習があるが、これは神に願い事をする際の衣装を知っているからで、日本人は世界で唯一、カッバーラを身に着けていた民族と言える。そして禊ぎは身を清めるバプテスマでもある。
裏を返せば、日本人は死の樹にも精通しているということで、「丑の刻参り」はまさにそのことを物語る恐るべき儀式である。
丑の刻参りとは、闇夜に神社の御神木に藁人形をあてがい、3か所に五寸釘を打ち込む呪いの儀式で、それを行う者は、頭に3本のろうそくを立てた鉄輪をかぶり、胸に鏡を下げる。イエス・キリストが両手2か所と重ねた足1か所の計3か所に釘を打たれたと新約聖書にあるが、丑の刻参りはイエス・キリストを榊に掛ける行為そのものである。この儀式は、自分の放った呪いが自らに返って自らも滅ぼすとされ、禁止されていた。「人を呪わば穴二つ」とは、まさにその警告である。