(27)「仏」とは「私は有る」の意味である!
(下つ巻・第9帖 神も仏もすべてがイエス・キリスト)
「最終戦争(ハルマゲドン)」は全人類の最終戦争でもあるが、神々の最終戦争でもある。神々とは、造物主である絶対神と悪霊の長であるルシフェル(サタン)との闘いである。その様子は、絶対神に仕える天使と言えども、そのすべてが教えられているわけではない。ただ両方が全力で大衝突し、その凄まじさは規模の面でも空前絶後となるだろう。光と闇の拮抗する闘いは、最後の最後の九分九厘の所で絶対神が登場し、悪霊を封じ込めてしまうだろう。その時、日本は世界に冠たる国として認められ、世界中の国々は日本を含めて、神の王国に従うことになる。
絶対神の光と悪霊の闇の差は無限に大きいが、ある意味で紙一重ともいえる。なぜなら、悪霊も元は天使だからである。だから、悪魔も悔い改めれば、絶対神は許すことになる。それほど天照大神(イエス・キリスト)の懐は大きく、極限の愛に満ちた神なのである。東京に建設される絶対神の神殿は、神を求める者なら誰でも入れるようにしてほしい。その聖域を管理する者は、神と同じ資質が必要である。その者は、口先だけの指導者ではなく、人の一番最後にいて、汚れた厠を掃除するほどの気構えが無ければならない。踏ん反り返って、傲慢に陥ったら最後、その者は取り換えられるだろう。
(解釈資料)
神社の「社(ヤシロ)」というが、「ヤ」はヘブライ語で絶対神ヤハウェを示し、「シロ」は臨在の幕屋を建てた場所を示した。つまり、東京に建つ社とは「神殿」である。
「イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた」(「ヨシュア記」第18章1節)
さらに仏教の「寺(テラ)」はラテン語の「世界・地球」の意味で、漢字破法を使えば寺は「土・寸」で「土の寸法=世界・地球」となりラテン語の意味と一致する。さらに「仏」は「イ=人」「ム=旧字の意味→私有」であり、「私は有る」となれば「ヤハウェ」となり、ヤハウェが受胎して現人神イエス・キリストになったのが仏となる。と言うことは、神も仏もすべてがイエス・キリストとなる。
ハルマゲドンと共に再降臨するイエス・キリストの姿をヨハネはパトモス島で示現を通して見ていた。
「そして、私は天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義を持って裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には自分のほかは誰も知らない名が記されていた」(「ヨハネの黙示録」第19章11~12節)
白い馬にまたがる神は、誠実、真実の象徴であるイエス・キリストであり、真紅の衣を着て神の言葉を吐く。その冠に「誰も知らない名が記されていた」とある以上、当時は誰も、観音菩薩、天照大神、ケツァルコアトル、ククルカン、ブラフマー等々の名は知らなかったはずである。つまり、その頭に冠を載せているブラフマーとは天地創造の神イエス・キリストを指している。白馬にまたがり世を救うために降臨する「馬頭観音」も、その正体はイエス・キリストで、贖罪の血の色の衣で降臨するイエス・キリストの預言から、「紅観音」とも称されている。
「また、血に染まった衣をまとっており、その名は神の言葉と呼ばれた」(「ヨハネの黙示録」第19章13節)
馬頭観音はヒンズー教のヴィシュヌの変化の一つで、そのヴィシュヌが現人神としてクリシュナになる以上、イエス・キリストと判明する。さらに、世が終わる寸前に白い馬にまたがって悪を滅ぼすヒンズー教のカルキ神も、イエス・キリストである。