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「竹内文書」の真相(7)

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(7)古史古伝

 フェイクニュースと言う言葉がある。偽情報をあたかも真実であるかのように語る報道だ。

 こうしたフェイクニュースには、全て意図がある。明らかに政治的な意図をもって偽情報を流し、かつ炎上することも見越して操作する。当局が発表する公式声明が必ずしも正しいとは限らないのは、世の常である。それゆえ、真実の歴史と称する書物がしばしば現れる。

 もちろん、その多くは偽書である。古代の書物と言いながら、そこに書いている文字や仮名遣い、更には言葉、用語など、およそ同時代にはあるはずのない概念や思想が含まれており、歴史的検証に耐えられないテキストが数多くある。

 近代的な実証主義的な歴史学がなかった時代、神話や伝承と歴史的事実は混同され、史実かどうかが十分に吟味されることはなく、一方的な視点で書物が書かれた。

 学問的に、これらは偽書と言うレッテルを貼られ、史実を検証するための歴史書とはみなされず、あくまでも成立した時代の民族や思想を知るうえでの資料的価値を評価されるにとどまる。特に平安から鎌倉、室町時代にかけて、仏教や陰陽道の影響を受けた偽書は数多くある。

 だが、そうした偽書群の中に異彩を放つ歴史書がいくつかある。「古事記」や「日本書紀」に記された神話とは、全く異なる内容のためか、古代を超越する「超古代史」、あるいは「超古代文書」とも称されたが、古代史研究家の吾郷清彦氏及び佐治芳彦氏らによって提唱された「古史古伝」という名称が知られるようになった。

 現在、主な古史古伝としては、「竹内文書」を筆頭に「宮下文書」や「上記」、「秀真伝」「東日流外三郡誌」「九鬼文書」「物部文書」「カタカムナ文書」などが知られている。いずれも正史である「日本書紀」や「古事記」の内容とは大きく異なり、大和朝廷成立以前の歴史、もしくは大和朝廷とは別の系統の王朝の存在を主張するのが特徴だ。

 数ある古史古伝の中で筆頭に挙げられるのが「竹内文書」である。まず表題にある「竹内」とは記紀に登場する「武内宿祢」にちなむ。神々を別にすれば、武内宿祢ほどミステリーに満ちた人物はいない。天皇の側近、棟梁之臣・大臣として仕えた人物であるが、かなりの長寿であった。第12~16代、すなわち景行天皇、政務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の歴代5人の天皇を補佐したとされる。もっとも「竹内文書」では仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母である神功皇后も天皇として即位しているので、6人の天皇の側近であったことになる。

 武内宿祢は祭祀を司る祭司であった。当時、歴史書は支配者の権威の裏付けであり、天皇のレガリアである三種の神器と同様、門外不出だった。

 ところが、応神天皇の時代、社会情勢が大きく変わる。大陸の動乱を受けて、朝鮮半島から大量の渡来人がやってきたのだ。彼らは独自の信仰を持ち、東アジアでは最新の思想であった仏教を日本に持ち込んでくる。

 「日本書紀」によると、552年、第29代・欽明天皇の時代に百済の聖明王が仏典や仏像を贈ったことが記されている。現代の歴史学では538年、第28代・宣化天皇の時代に仏教が伝来したというのが定説だ。しかし、実際のところ日本に仏教が伝来したのは6世紀以前のことである。仏教と出会った渡来人が持ち込んだはずであり、このあたり「竹内文書」が言う応神天皇の時代には、かなりの勢力になっていたと語るのもうなずける。

 やがて神道と仏教は対立するようになり、応神天皇は武内宿祢に命じて、大切な神宝を越中にある皇祖皇大神宮の地中に秘匿させたという。仏教徒が携えてきたのは仏像だけではない。重要なのは経典である。当時、日本には漢字以外の固有の文字があった。文書も神代文字によって記されていたが、漢字が常用されるに従って、これを認めない者も増えてきた。このままでは秘伝の歴史書を理解できるものがいなくなるのではないかと考えた第25代・武烈天皇は武内宿祢の孫にあたる平群真鳥に命じて、神代文字を漢字仮名混じりの文章に翻訳させたとされる。

 このあたり、記紀では両者は対立し、平群真鳥は大伴金村によって殺害されたと記されているが、これは偽装工作だった。表向きは反逆したかどで討たれたように見せかけて、実は、天皇の密命を受けて、敵から歴史書を守ったのが真相だという。

 武内宿祢は神道の祭司であった。表の公務を引退した後、彼は「竹内氏」と改姓し、今の富山県に創設された「天神人祖一神宮」の初代宮司に就任する。以来、宮司職は武内宿祢の子孫が就任し、代々、御神宝を継承する。書写され続けた歴史書が「竹内文書」として知られることとなる。

 久しく秘伝書として表に出ることがなかった「竹内文書」であるが、1928年に、その存在が一般に公開される。発表したのは竹内巨麿だ。事情は複雑だが、彼は武内宿祢及び平群真鳥の子孫である竹内家に養子となり、天津教と言う新興宗教を起こすにあたって、門外不出の「竹内文書」を聖典として位置づけたとされる。


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