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「竹内文書」の真相(6)

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(6)「日本書紀」と日本の正史

 英語で歴史は「ヒストリー」、すなわち、「HIS STORY」だ。つまり、「彼のストーリー」だと解釈し、その「彼」を欧米では「絶対神」つまり「聖書」でいう「創造主ヤハウェ」だと語ることがある。最も、これは後付けである。語源はギリシャ語の「ヒストリア」にある。原義は「探求」であり、古い事柄を掘り起こし、そこにある真実を見極める意味で用いられた。したがって、歴史とは神の物語であるとするには、いささか無理があるといわざるを得ない。

 しかし、ここで言う「彼」を「時の権力者」と読み換えれば、途端に話は変わってくる。歴史は言葉と文字と数によって語られる。記憶と記録によって後世に受け継がれる。主体は記憶能力に優れた人物であったり、読み書きができる教育を受けた者だ。彼らは時の権力者の意向に従って、情報を物語という形にして残す。

 ただ、古い話になると、それは歴史ではなく、神話だ。そこにバイアスがかかってくると、もはや、どれが事実なのか、全くわからない事態に陥る。日本すなわち大和朝廷も、しかり。国家が成立する段階になって、日本の歴史、つまり大和朝廷公認の歴史を記録として残す必要に迫られる。これが6世紀から7世紀である。中国の隋や唐との外交で、大陸のグローバルスタンダードともいうべき歴史観が日本に入ってきた。

 第40代・天武天皇は勅命によって日本初の歴史書を作らせる。712年の「古事記」、続く720年の「日本書紀」である。両者をもって「記紀」と称すが、「正史」は「日本書紀」だけである。

 その続きは全部で6つある。「日本書紀」のほか、「続日本記」「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「三代実録」である。これらの正史の編纂にあたって管理したのは、それぞれ藤原不比等、藤原継縄、藤原冬嗣、藤原良房、藤原基経、藤原時平である。一目瞭然、藤原氏である。

 律令国家において、正史を作ったのは、「藤原氏一族」なのだ。つまり、日本の正史と言う「ヒストリー」における「彼」とは「藤原氏」なのだ。

 奈良時代から今日に至るまで、日本の歴史を握っているのは藤原氏である。権威と言う意味では藤原氏が日本を支配している。天皇家も、裏を返せば、その系図を彩っているのは藤原氏に他ならない。

 藤原氏は日本の歴史における勝者である。一族の素性を含め、国の支配を正当化するために、正史を編纂する。都合の悪い史実はすべて闇に葬る。きわめて政治的な案件のもと「六国史」は作り上げられたのだ。そこに権力闘争に敗れた豪族の意向はもちろん、彼らが主張する伝承は反映されるわけがない。それどころか事実は捻じ曲げられ、彼らは国家にまつろわぬ逆賊として描かれることにより、征伐の根拠とされてしまう。こうして藤原氏との権力闘争に敗れた者たちの歴史は闇に葬られることになる。

 それでは、正史である「日本書紀」よりも8年も早く完成した「古事記」は何なのか?

 同じ神代から古代天皇に関する事柄を記しながらも、「古事記」は正史ではない。日本最古の歴史書と位置付けられながら、扱いが違うのだ。いったい、これはどういうことなのだろうか?

 日本最古の歴史書は「古事記」である。第40代・天武天皇の勅命で編纂された。古代豪族たちの伝承を稗田阿礼が暗記、もしくは資料収集を行い、これを太安万侶が書物としてまとめたとされる。具体的に、天皇家の系譜を記した「帝皇日継」と古伝承である「先代旧辞」をもとに作られたのが「古事記」であると序文に記されている。よって、現存はしていないものの、「古事記」以前に歴史書が存在したことは間違いない。645年に起こった「大化の改新」、今日でいう「乙巳の変」で蘇我入鹿が暗殺されると、父の蝦夷が邸宅に火を放ち、そこにあった歴史書「天皇記」や「国記」が消失してしまったとされている。

 これらの古文書は国家が編纂した公文書ではない。あくまでも天皇家が自らの系譜と出自を担保するために記した私的文書である。「古事記」もまた、その性格が強く、細かい部分では「日本書紀」と内容が異なっている。実際、奈良時代から江戸時代まで、神代や大和朝廷に関する記述は、基本的に正史である「日本書紀」に依っている。例えば、この世に現れた最初の神様の名前は「古事記」でいう「天之御中主神」ではなく、「日本書紀」の「国常立尊」とされてきた。

 世に言う「古事記」は「天皇古事記」ともいうべき書物であり、同様に他の豪族もまた独自の「古事記」を持っていた。「古事記」を編纂した太安万侶は太氏、すなわち多氏一族だが、彼らも「多氏古事記」を持っていたとこがわかっている。

 私的文書であるがゆえに、「古事記」の名前は「日本書紀」をはじめとする正史には出てこない。正史「日本書紀」が藤原氏によって企画されたものだとすれば、「古事記」は古代天皇家の私的文書であるがゆえに、内容にも違いが出てくるのは当然である。ましてや古代天皇以外の豪族たちの「古事記」には、それこそ正反対の内容が書かれていた可能性もある。事実、「日本書紀」は、そうした伝承について「一書曰く」という形で併記にしているが、神代の部分の相違は決して小さくない。歴史は権力闘争の繰り返しである。敗れた者たちの歴史は闇に葬られ、この世から抹殺されたに違いない。だが、歴史には裏がある。表の歴史では語られることがなかった伝承が、あたかも伏流水となって今日まで残っているケースもある。学術的には偽書とされるが、その中に敗北者たちの怨念が異説と言う形で刻まれている。それが「古史古伝」である。


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