(25)戦時中は予科練の歌を暗唱していた愛国少年(畠田氏)
23歳の時に私の中に起こったことは、カルチャーショックと言うようなものではなく、思想的な大変換だった。私は「武士道はキリスト教が起源だった」と言う本を1年前に発行しました。センセーショナルなタイトルですが、私がつけたのではありません。出版社さんがつけました。このほうが面白いと言われ、私も面白いと思ってオーケーを出しました。
私が冒頭に書いた文を今読ませていただきます。これが根幹になるからです。一番初めにこう書きました。「国の形は人に宿る思想によってなる」
私の形も、私の思想から始まっているわけです。23歳の時、私は聖書を初めてもらったんです。日本語の新旧約聖書を初めてニュージーランドでもらいました。私は23歳になるまで聖書を1ページさえも読んでおりませんでした。もちろん、キリスト教会に足を踏み入れたこともありませんでした。恥ずかしい話ですが、宗教アレルギーで全く関心がなかったのです。
私の関心は、ひとかどのビジネスマンになることでした。私が京都の大学に行っておりましたが、大学は大荒れに荒れていました。私も京都の町をジグザグのデモをした1人なのです。
私は5歳の時に、大阪の空襲にあっております。その私がアメリカを好きになるはずがありません。5歳の時に焼夷弾の雨の中を逃げたのです。ですから、小学校の高学年、中学生になっても、私の頭には飛行機が上空を飛ぶトラウマがあるわけです。非常に恐怖心を覚えるのです。皆さんは恐怖がトラウマになったことがありますか? ずっと続くのですよ。空に飛行機が飛んでいるだけなのに、恐怖心が襲ってくる。これは5歳の時の記憶が私の頭の中にあり、10年、15年と続きました。
しかし、私はアメリカに行ってアメリカを見たいと思ったのです。半分復讐心もあります。私は5歳の時に予科練の歌を歌って、ミカン箱の上から下りなかったそうです。「7つボタンの予科練に~」と歌ったのです。私は4人兄弟姉妹の一番下ですが、長姉はその時20歳でした。私は5歳、15歳も違う。彼女は今92歳でピンピンしています。彼女が言っていました。「お前は予科練の服を絶対に脱がなかった。洗濯もさせなかった」と。愛国少年だったのです。
ニュージーランドで初めて私の聖書をくれたのはトニーと言う青年でした。彼は私に執拗に教会に来いというわけです。聖書の神を信じろと言う。私はアメリカに行くための踏み石として、ニュージーランドにたまたま行ったのです。貨物船が岸壁に着いたのが日曜日で、移民局の人が全部休みで、入国は月曜日の朝まで待たなければならなかった。日曜日は何もすることがない。その時にトニーがやってきたのです。宣教師の働きのまねごとをしていたわけです。彼は27~28歳でした。熱心なクリスチャンで、はっきり言って私が大嫌いな部類のクリスチャンの1人でした。何が何でも伝道する。一生懸命やります。私はそれに辟易しまして、2か月間断り続けました。
後で分かったことですが、彼のお父さんは日本人に殺されたのです。そして彼は、兵隊になるために飛行訓練を受けていた時に、聖書に触れたそうです。私はアメリカをやっつけようと思って予科練の歌を歌っていた。その2人がニュージーランドで会ったのです。彼は私にそんなことは一言も言わないで、神様は素晴らしい。信じろというわけです。私は放っといてくれと言い、話がかみ合わない。そういうのが2か月間続いた後、私はようやくイエス・キリストを信じることができるようになったのです。