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日本と天皇家の機密(19)

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(19)人類180万年史と神武天皇、万世一系、南北朝に関する本当の事(小野寺直氏)

 これからは、小野寺直氏の講演である。彼は南朝111代主で、明治元年6月15日に即位した大政天皇の曾孫として昭和20年に生まれる。

 「日本書紀」の神武帝紀に、神武天皇45歳の時、わが先祖は西の地を支配した年代に関しては179万2470余年と、一門を集めて述べたとある。戦前、湯川秀樹さんのお父さんの小川琢治先生が、京大の教授として人類5万年史と言うことを述べた。その時、文部大臣は鳩山一郎氏でしたが、「天照大神より古い人類がいてたまるか、この馬鹿者」と言って、湯川秀樹のお父さんの小川博士は、京都帝国大学を辞職して仙台の私学の先生になった。当時、私(小野寺氏)の家は仙台に疎開しており、琢治先生は度々わが家を訪問していたようで、私が幼少の頃、琢治先生のご長男で冶金・金属工学者の芳樹先生にいろいろなお話を聞きました。その時の記憶では、湯川秀樹さんは、本来、小川と言う姓で、文部大臣とお父さんが学問上の喧嘩をしたわけですから、小川の姓では学問に支障をきたすので、夫人の湯川家の養子になって、湯川秀樹となった。

 その議論の内容は、琢治先生の人類5万年史でしたが「日本書紀」には179万2470余歳と示され「日本書紀」が編纂されて今日約2000年経ったわけです。ここにおいて、人類の180万年史と言うのは、グルジアのドマニシと言うところで5体の人骨が発見され、遺伝子学的には、世界の人類は1対の夫婦から分かれたことが証明され、その5体の化石は、177万年前の化石であるという答えが出されています。

 中国では人類のそういう問題に対する最も古い記録として「三五歴記」と呼ばれる書物がございます。又旧約聖書における人類のアダムとイブという問題も、だいたい中国の「三五歴記」と同じ様な頃です。

 一般的に南朝と言うと、長禄2年の乱によって、赤松残党によって吉野において南朝の当主は殺されそこで絶えてしまったと明治教育では述べられている。しかし、これは赤松氏の残党の赤松氏復興を条件とした恩賞を得るため、浪士たちが勝手に捏造した記録によるものである。当時、大和の国の守護権を持っていた摂政九条氏の弟である興福寺大乗院の大僧正教覚の記録によれば、「一宮は奥に引き籠られる」とある。

 天皇は万世一系と言われているが、明治以降の教育で、南北朝という言葉を聞いていませんか? もし南北朝と言う2つの朝廷があったとするならば、どうして現在の明仁君たちが万世一系なのですか? 南北朝とおっしゃるならば、既にそこで皇統は二統に。そして朝廷は二朝に分かれていなければならない。逆に言うと、朝廷は行政府ですから、この国家は支配の範囲は別として2つの分かれて今、数百年というふうに捉えるのが正しい歴史のとらえ方ではないですか。

 ここに示すのは、後醍醐天皇の三房と呼ばれた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)と言う人が、後醍醐天皇をいさめた文書の原文でござます。これに関しては、子孫である万里小路博房(までのこうじひろふさ)がこんな鑑定書を書いている。ここに「いかなる人の家に伝えたるか」と。普通、鑑定書と言うものは、誰々がお持ちの、あるいは誰が家に伝えると書くのではないですか。「いかなる人の家に伝えたる」という表現では、鑑定書としてはどうですか? 要するに、天皇云々と書けなかったのですね。それで「いかなる人の家に」という表現をしているわけです。これが書かれたときは、万里小路の侍臣である秦貞嘉と言う人が、文久元年と年号を入れております。ここには南朝後醍醐天皇の黄門藤房卿の真跡であると、こんなふうに書いてございます。

 今、これを示した理由は、南朝と言うか国体天皇の流れが幕末まで正しく存在していたということを、政体側は認識していたという証拠としてお見せしたわけです。これは後醍醐天皇を藤房がいさめた文ですから、後醍醐天皇の子孫が持っていて当たり前なのです。・・・・博房という方は、宮内太夫や何かを務めて、明治17年まで健在でした。宮中の中枢の身分を持って活躍なされた方です。ですから、政体側においては、国体と言うものが実際存在したと認識していました。例えば、明治44年、欽定憲法下の桂第2次内閣において、南朝正統と言う閣議決定がございました。本家の子孫が絶えたとしたら、次の分家は当然、自動的に本家の祭祀権を継承して本家になるのですよね。国体が存在していなかったとするならば、南朝正統と言う閣議決定を成す意味がないのです。自分らが既に本家なんですから、どちらが正統か、正統じゃないかという問題は必要ないわけです。ゆえに、明治大行天皇は大変悩まれて、お亡くなりになられた。その後、それを解決すべきを命ぜられた大隈重信と明治の元勲山縣有朋は大変仲が悪かった。山縣有朋は南朝びいきだった。そこで大隈重信は欧州で始まった第1次世界大戦に参戦して国事多難だから、この問題の解決はしばらく待ってほしいということで逃げた。それ以降、我が国は海外と小さなトラブルをずっと起こしてきた。それをしていないと、この問題を解決しなければならなくなるからである。

*明治天皇の入れ替え説は多くの人によって語られており、公然の秘密とされている。足利氏により偽者の北朝が立てられ、幕末に入れ替えが成され、後醍醐天皇の流れを汲む南朝の明治天皇が天皇に即位した。そのため、南朝側の楠木正成の銅像が建てられている。


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