(2)天照大神が降りたった「御木」が「隠岐」の由来(吉田氏)
「隠岐」という言葉を誰が名づけたのか? 「古事記」「日本書紀」の「一書(あるふみ)に曰く」ということで私たちには古伝が伝わっていて、天照大神が名づけたと聞いている。天照大神は天上の高天原の高いところから地上を見下ろす神で、なかなか地上に降りてきたことはない。生涯の内3回ほど降りてきて、その1回は隠岐に降り立った。どこかと言うと、西ノ島の三度(みたべ)の山です。その時、天に聳えるような見事な木を見つけた。「何と立派な木だろう。ここを御木(おき)と名付けよう」。これが始まりです。
「古事記」を読むと、淡路、四国、隠岐と生まれてくるが、その後に名前が付いている。淡路島は「淡路穂狭別島(あわじのほのさわけのしま)と出ている。四国は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)。3番目の隠岐は「隠岐之三子島(おきのみつごのしま)と出ている。島前(どうぜん)に焼火山(たくひさん)という火山があって、これを取り囲む外輪山、これが3つの島(中ノ島、西ノ島、知夫里島)に分かれている。これが隠岐の3つ子の島(=島前)です。しかし、「古事記」には鳥後(どうご)の事は何も書かれていない。不思議だと思う。
もともと島後は4つの町村に分かれていた。これを1つにまとめて新しい町にしようというのが、12年前の平成の大合併の時にありました。その時に隠岐の島町と名付けました。そしたら、島前の3つの島が怒って「隠岐の島と言う島は無いぞ」という話になったわけです。では、これは何と言う島かと言うと、名前が無い。ただ、今の隠岐の島町だけが、昔から名前が無くて、島後(どうご)と呼んでいる。それが不思議なことです。
この秘密はアイヌが持っていた。アイヌの長老の山本多助さんが隠岐にやって来て、アイヌではここをオノコロ島と呼んでいると教えてくれた。オノコロ島とはイザナギ、イザナミの国生みの大もとになった島です。アイヌは、隠岐の島後を古代からオノコロ島と呼んでいた。
丹後半島に丹後一宮、元伊勢の籠神社がある。籠神社をお参りした時、籠神社の神職の方が「隠岐の国からですか。ここの神様は隠岐の国とお伊勢さんを行ったり来たりしていますよ」という。とりあえず、隠していきなさいよと言う神様のおぼしめしで、今日に至っている場所ではないかと思う。
この島で一番格式の高い神社はローソク島、ローソク岩で有名な久見(くみ)と言うところです。久見にある神社の名は伊勢命(いせみこと)神社です。お伊勢さん、籠神社、そして伊勢命神社と北西に繋がっていく日本列島のルートが見えてくる。
本当は言っていいのかどうかわかりませんが、伊勢命神社の事を地元では内宮と言っている。そして、隠岐一宮の事を外宮と呼ぶ。内宮、外宮は伊勢神宮の雛型です。既に隠岐にはある。
隠岐には古い木が沢山あって、そこに荒神様が祀られている。地域を守る神様として、その集落の大きな木、古い木には神様が宿る、ごく自然に尊いものだという印象を持っているので、そういうところに藁で大きな蛇を編んで、それをなぜか7回り半、木に回してかける。首が枝から下がってくる。これは何を表しているのか? 私はエデンの園の古い木の年老いた蛇の逸話を思い出さずにはいられない。
もう1つ、布施では山祭をやっている。大山神社があって、布施の山祭です。実は、文科省が日本最古の山祭と認定している。榊の大木を根っこから掘って、集落中を引きずり回して神社に上げて、祭事を行う。秘密はこの榊です。根っこごとの榊です。これは天照大神の天の岩戸隠れを象徴しているのだろうと私は考えています。
隠岐の相撲は非常に古く、日本相撲協会が「隠岐が発祥かもしれない」というくらいです。能見宿祢の出雲あるいは大和、このあたりが日本の相撲の発祥地と言われている。出雲より古いと言われているのが隠岐です。
隠岐古典相撲は、屋根つきの土俵をこしらえ、土俵の土台となる土を盛った四隅に柱を立てる。諏訪大社の四隅の柱を想像させる。柱そのものが神さまであり、柱が何本も立つわけです。四隅に1本,2本、3本、4本と立つ。それが出場の力士の賞品として持ち帰る。
常に神様を意識した奉納です。役力士、三役と言って、神様の数字の3が出てきます。最高位は大関です。横綱はいません。大関、関脇、小結と言うのが役力士の三役です。隠岐徹夜相撲と言われるように、昔は2日間だったそうですが、今は1日(24時間)で終わります。その相撲を題材とした「渾身」という映画が、2013年にロードショーにかかった。その古典相撲のロケをして映画化した時、東京からの友人から相次いで電話があり「現代の日本でこんな伝統文化がまだ伝えられていることが信じられない」と言っていた。