(39)後醍醐天皇は十字架刑を再現する儀式を受けていた?
飛鳥「大阪の四天王寺について、僕が子供の頃に周囲のお年寄りたちから聞いたのは、この四天王寺には聖徳太子の手形があって、その手形には釘の痕があったという話。ただ、これは年寄りの勘違いで、実は聖徳太子の手形は古くなって色が薄くなってきたので、後醍醐天皇が余りにも畏れ多いからと、自身の筆記を添えて自分の左手の手形を2つ押した。これが後醍醐天皇版の「四天王縁起」で、これを聖徳太子の手形だと、お年寄りたちが勘違いした。それはともかくその後醍醐天皇の手形には五寸釘の跡がある。これは大変なことですよ。つまり、イエス・キリストの十字架刑を再現して同じ苦痛を受けるという儀式こそが、大嘗祭の正体なのです。少なくとも、後醍醐天皇の時代までは釘の儀式があった。正しくは釘の位置は手首にするべきなのだが、象徴的な釘の位置は掌になっている。なぜか言うと、手首はイエス・キリストの釘の痕だから、いくら天皇と言えども同じところはダメで、掌にやらなければいけない。あくまで象徴としてそこに釘を打つわけだが、そもそも、天皇そのものが象徴的存在ですからね。それで明治天皇の時に、忌部が改めてアラタエを納めるようになったのは、大嘗祭が本来の形に戻ったということでもある」
杣「元に戻した」
飛鳥「だけど、さすがに釘の儀式は外交上宜しくないということで一切やらなくなったと思う。実は、四天王寺と同じく後醍醐天皇の手形があるのが、弘法大師(空海)が書いた「弘法大師御手印縁起」の後醍醐天皇による写本版です。建武2年(1335年)に、後醍醐天皇が高野山を訪れ、結界を示す大切な縁起として写しを書き、巻末に自ら手形を捺印した。これを正本とし、門外不出にしたという。不思議なのは、高野山の手形は両手で押してあるが、五寸釘の痕が左右どちらにもない。つまり、四天王寺の方が高野山の後の写本なのか、どちらかが別人だったことになる。四天王寺の方は国宝で、高野山の方も重要文化財なので、新たな大きな謎が1つ残っている」
杣「先日、明治天皇の孫に当たる小林隆利牧師がお亡くなりになった。その小林牧師が書き残したものによると、飛鳥先生がおっしゃるように、明治天皇は聖書をよく読まれていらしたようですね。それに、ヘボン宣教師を招いて勉強されていたという」
飛鳥「ヘボン式ローマ字の考案者として知られるヘボンですね」
杣「ええ、三笠宮殿下も一緒に学ばれていたそうです。また、高松宮宣仁殿下は昭和22年に「神社新報」のインタビューで「神道に欠けているものをキリスト教とタイアップすることで学ぶべきではなかろうか」と発言しています」
飛鳥「タイアップしろって凄い」
杣「そう語ったそうですよ」
飛鳥「だから天皇家の周りの教師たちは、みんなキリスト教徒なのです」
杣「更に、宮内庁の職員にはクリスチャンが多いと言われていますね」
飛鳥「天皇家の本質を知れば、当然のことではありますね」