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物部氏とアークの謎(37)

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(37)神事を行うレビ族の象徴が宿祢

飛鳥「宿祢は「古事記」では、第12代・景行天皇に始まり、第13代・成務天皇、第14代・仲哀天皇、第15代・応神天皇、第16代・仁徳天皇までの5代の天皇に、244年間にわたり仕えたと記されている。それ自体がすでに常軌を逸しているが、宿祢の子孫が代々同じ名前を継承したとする説が有力で、事実そのように解釈されている。しかし、籠神社の唱える「多次元同時存在の法則」から、「神」の一字を共有する天皇を全て同一人物とすれば、全てが神武天皇に集約して、宿祢は初代の天皇に仕えたことになり理屈がきれいに通る。そこで武内宿祢の子孫が受け継いだとされる「竹内文書」についても話さねばならない。

 アカデミズムは「竹内文書」を偽書と決め付けており、その最大の理由が、記紀と内容が違うからである。「神代文字で書かれているので偽書である」と言う理由だけで、現代のアカデミズムは、戦前からの決めつけを踏襲している。そもそも神代文字とは、漢字伝来以前の日本に存在したとされる様々な古代文字の事です。漢字が使われるようになってから、姿を消したとされている。明治初頭の国学者・落合直澄の調査により、当時で百種以上の神代文字が全国規模で発見されていたことが分かる。それが「竹内文書」の登場で、その数は一気に4百種にのぼるようになった。

 宿祢の2文字を調べたところ、「宿=宿営」「祢=形代」となり、「移動する幕屋」と言う意味になる。つまり、レビ族の特徴を示している。その宿祢が物部にも秦氏にもいるなら、北朝イスラエル王国にも、南朝ユダ王国にもいて、神事を行うレビ族の象徴が宿祢となる。天皇家を裏で支える秘密組織「八咫烏」も同一となる。神武天皇を迎えに行った八咫烏は、神武天皇を迎えに行った倭宿祢と同一人物で、やはりレビ族となる」

杣「そうですね」

飛鳥「秦人が神武天皇に率いられて韓半島から渡来した時、その南端に建てた国が「伽耶」で、昔は「加羅」と言った。そこを巣にして日本列島に向かったなら、「加羅・巣」となる。それが神武天皇側のレビ族の八咫烏になる。

 と言うことは、神武がエフライムであろうと、マナセであろうと、ガドであろうと間違いなく戦う天皇だった。しかし、継体天皇以降は神事を行う天皇に変わる。それに、秦人の大集団は「魏志韓伝」にあるように、韓半島の束を朝鮮民族の「馬韓」から奪い、「秦韓(辰韓)」「弁韓」を建て「12の部族」の終結を待ったのは、イスラエルと無縁ではない。だから、建国して最初の天皇の神武と言うのは、固有名詞と言うよりも、集合名詞で象徴名だったかもしれない。

 後に天皇家は血統断絶の危機に直面する。それがガド族なら、日本に来たイスラエルの支族の内、最も力を持つのがエフライムなので、エフライムが数に物を言わせて天皇の地位を奪ったはずです。それだけ1つの直系がいなくなるというのは大変なことなのです。それにより、勢力争いになり戦争になってしまうから。だからこその宿祢だったのではないか。レビは番外であり、別格だから、12支族に入っていない。そこで、血統断絶の危機に当たって、知恵のある者は、「これは我々だけで争っていても仕方がないから、レビに預けよう」と発想したはずです。それが一番賢い方法だから。それ以後、天皇と言う存在は神事を統括する大宮司と言う職になった。イスラエルの血統を残すにはそれが一番の策ですからね。それが現在まで続いているわけです。南朝系、北朝系の違いはあるがどちらかが偽者と言うわけではない。それで敢えて言わせてもらえば、どの支族が南北朝時代に北朝系についたとしても、とにかくレビ族では無かった。だから、レビ族の忌部は、大嘗祭に不可欠なアラタエを絶対に北朝には献上しなかった。籠神社は当然ながら南朝系を支持した為、足利の室町幕府から領地を減らされた。それに嫌がらせを受けたという」

杣「神武がエフライムであろうとマナセであろうとガドであろうと、イスラエルの血統であることは間違いないですよね。シャハン教授は、モーセと神武の関係だけでなく、フトマニ(占いを行う神事)をやった崇神天皇の人生も、ダビデ王と生き写しであると述べている」

飛鳥「似ているみたいですね.ある意味で生き写しです」

杣「更に、垂仁天皇の人生はソロモン王の生き写しになっていると。例えば、ソロモンは金の盾などの武器を作った。一方、垂仁天皇は武具を作ったのもそうだけど、800もの溜池とか、そういうものを日本中に造った。そこも似ている。イスラエルの歴史における王と、日本の天皇を並べてこのように比較すると分かる人には分かる話だと思う」

飛鳥「凄く似ていますね」

杣「天皇と言う言葉が最初に現れたのが、600年代の大坂の古墳だと思う。松岡山古墳から発見された「船首王後墓誌銘」の銅版に、天皇の文字があり、戌辰年12月(668年)と記載されている。・・・・それまで日本において「大王」と名乗っていたものが、ある時から「天皇」になったきっかけは白村江の戦いだと思います。唐が新羅と組んで百済を滅ぼそうとして、日本が援軍を送った戦いですね。しかし、その戦いに負け、朝鮮半島にいたユダヤの人々を日本に受け入れることになった。それまでは唐の長安が東のエルサレムとして認識されていたが、情勢が変わって、「イザヤ書」にあるように、エルサレムを日本に移すことになった。日本の藤原京などにエルサレムを移すのだという意識の変化が「大王」から「天皇」へ呼称を変化させた。ユダヤ教の儀式をしている天壇における神の名前を、そのまま使って「天皇」としたと思う」

飛鳥「エルサレムの正統を継ぐ者として奈良とか京都に移すのだと。その象徴が大仏だと思う。752年、1万人のお坊さんを集めて、インド人のお坊さんが指揮して奈良の大仏の開眼供養をした。「もう長安はエルサレムじゃないよ」と、「日本にエルサレムを作りました」と言う宣言だった。「平安京」はヘブライ語に翻訳すると「イール・シャローム」すなわちエルサレムですからね。これ以上にわかりやすい宣言はないでしょう」


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