Quantcast
Channel: 日本と世界の情報ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

物部氏とアークの謎(32)

$
0
0

(32)聖骸布以外のキリストの聖遺物はすべて日本にある?

編集部「物部氏はイスラエルの血を引く徐福集団の末裔と言うのは、飛鳥さんの説と言うことでいいのでしょうか?」

飛鳥「物部が徐福の末裔と言う話は籠神社の海部光彦宮司に聞いたのです。籠神社は間違いなく物部系なのです。海部氏は物部の中の物部であり、その祖先は日本に渡来した徐福だと主張している。それでは、徐福とは何者なのか? 僕は「ジョセフ」だと解釈した。事実、籠神社の周りには徐福が上陸した場所だとか、ヘブライ語を思わせる地名がある。例えば、徐福は「与謝」と言うところから上陸している」

杣「与謝=ヨッシヤ」ですね」

飛鳥「ヨッシャ、ヨッシャですよ。サッカーでも勝と「ヨッシャー」って言うじゃないですか。あれは勝利と言う意味のヘブライ語なのです。そのままヘブライ語。それで海部宮司に「海を渡ってきたから海部なのでしょう?」と聞いたのです。さらに、「海を渡ってきたのはジョセフ=徐福しかいませんよ」とも迫った。「僕は、物部氏の祖は徐福だと断定します。どうですか?」と聞いたら、宮司は否定せず二ヤッと笑った。これ重要なのです。否定しなかったということが重要。つまり、後で伊勢神宮からつつかれても、海部宮司は「私は肯定していません」と言える。だけど、二ヤッと笑うことによって否定もしていない。籠神社のすぐそばが、徐福が上陸したとされる伊根町で、そこに新井崎神社がある。そこから若狭湾を望むと見える冠島と沓島と言う島が気になってくる。この2つの島の名は、仙人が天に昇るときに冠と靴を置いていくことに関係するが、同時に、イエス・キリストの荊の冠とサンダルは籠神社にあるのではないか? この点を海部宮司に聞くと、宮司はのらりくらりと逃げる。さらに、宮司の息子さんが出てきて、話がそこでウヤムヤになってしまう」

杣「そこが全てはっきり出てきたら、すごいことですね」

飛鳥「僕が知っている範囲で言うと、おそらく聖骸布以外のキリストの聖遺物はすべて日本にある。物部の最初の上陸が丹後・籠神社の地で、2回目の上陸が九州。それが弥生時代の幕開けになった。これは「魏志倭人伝」に記述された卑弥呼にも関係する。卑弥呼は「日の巫女」であり、これが、アマテラスの別名「オオヒルメ」につながる。だから、伊勢内宮と言う場所にはイメージ的に卑弥呼がダブらされている。一方、豊受大神は外宮の祭神ですが、実は卑弥呼の跡を継いだ「台与」と同じ意味の「豊」がつけられている。だから、内宮と外宮で魏志倭人伝に登場する2人の女王が配置されていることになる。この仕掛けを作ったのは、もともと物部です。物部のメッカは出雲大社でも伊雑宮でもなく、籠神社です。すべての根幹が籠神社なのですよ。籠神社の場所は日本海沿いでしょう。つまり、魏志倭人伝において魏からの使いの者が邪馬台国へ向けて移動したルートは日本海ルートではなく瀬戸内ルートだったことになる。魏志倭人伝で使いの者は船を一度降りてている。降りて陸行した後、小舟に乗って渡ってくる。なぜそれが分かるかと言うと、魏の時代、船の水行距離を測るのは、青銅製の重い「更香(こうが)」だった。太い線香の上に等間隔に鉄球を吊るした糸を渡し、鉄球が青銅製の盆に落ちた音の数と、減った線香の長さで、時間による水行距離が分かった。だから、魏の使いが九州に上陸するまで、方位と水行距離で記録されたが、上陸後の途中から再び水行になる。数え方が日数に変わったのは更香が乗らない小舟に分乗したからです。これは大型の外洋船から、内陸用の小型船に乗り換えたからです。これ、日本海だと波が荒いですから、小舟と言うのはありえない。つまり、瀬戸内ルートとしか考えられない。だから、魏志倭人伝には籠神社、あるいは、それと思しき場所が登場しないのです。逆に言えば、これほど重要な神社が登場しないこともまた、魏の使いが瀬戸内ルートで移動してきたことの証明となっている」

杣「内海を通ってね」

飛鳥「そうなのです。これまで邪馬台国に至る1つ手前の投馬国(とうまこく)が日本海側だったのか、瀬戸内側だったのか、いろいろな説があった。勿論、それ以前に九州説と畿内説があるが、もう今は圧倒的に、畿内説が優位となっている。これは畿内に決定していると言っていい」

杣「シャハン教授は、畿内説で邪馬台国の中心だったとされている奈良の纏向遺跡を見に行きましたよ。2016年来日されたときに、「絶対、纏向に行きたい」とおっしゃって」

飛鳥「それは絶対、行くべき場所です。(笑い) 面白いことに瀬戸内海の両岸の高地には「のろし台」の跡が点々と見つかっている。そして、その「のろし台」は、外から来る使いの者を案内する時のルートを示している。それと同時に外敵を知らせる監視の役目も果たしていた。それで、投馬国は「馬」と言う漢字を使っているのに、魏の使いは馬を見ていない」

杣「馬はいないと書いてありますね」

飛鳥「魏志倭人伝には馬はいないと書いてある。しかし馬は絶対にいたはずである。だから、これは敢えて使いの者に見せなかったと考えた方がいい。そもそも馬は当時の最先端兵器ですからね」

杣「最新兵器は見せないですよ」

飛鳥「そりゃあ見せませんよ。でも、物部は武士(もののふ)の元になったように、軍事力を誇っていたので、絶対に馬はいたはずなのです。さらに、魏志倭人伝には琵琶湖の事も書いていない。だからその点でも、日本海経由で上陸して籠神社や琵琶湖の脇を通り、邪馬台国に達したというルートはありえないことになる」


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1382

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>