(80)十柱=失われたイスラエル10支族
(天つ巻・第22帖 十柱の世の元からの活神様)
「失われたイスラエル10支族」の霊体神ヤハウェ(エホバ)が、父なるエローヒム(私はエル・ランティーと考える)の力を借りて処女マリアに受胎し、現人神イエス・キリストとなって、地上で大きな意味を持つ活動をした仕組みが分かっただろうか。
偽キリストである獣に従う器の者にはわからないだろうが、生きているイエス・キリストを信仰する原始キリスト教徒は、その仕組みをよく分かっているはずである。世界が不安定化する中、三位一体を信じるクリスチャンも、日増しに三位三体の正当性を理解するようになるが、その多くは手遅れになるかもしれない。早く気づいてバプテスマを受け、神権がある神の正しい組織に加わることである。
(解釈資料)
「十柱」とは、「失われたイスラエル10支族」の事である。彼らはアッシリア滅亡後、ヤハウェの導きで北を目指し、地上にはない世界アルザルに入って行った。そこは英語でシャングリラと言い、チベット密教ではシャンバラと言う理想郷である。そこに入ったのは本隊だけだが、その前に分かれた別隊があった。彼らは弓月国で時期を待った後、騎馬民族となって極東を目指し、朝鮮半島で馬韓から国土の半分を奪って前哨基地とした。その後、日本列島にたどり着いたが、その目的は、ハルマゲドンまで「イスラエルの三種の神器」と「契約の聖櫃アーク」を隠すためだった。
九州に上陸した騎馬民族の大王を神武天皇と言ったが、記紀では崇神天皇、応神天皇ともいい、仁徳天皇とも言った。これを「御霊分け」と言い、天照大神(イエス・キリスト)を「八百万の神々」に分けたと同じ手法である。すべては記紀を編纂させた藤原不比等の仕業である。世界中からイスラエルの至宝を隠すためのカモフラージュだった。
物部氏の古社である「籠神社」には、それを暴く鍵があり、「多次元同時存在の法則」と言う。それを飛鳥氏が公開した直後、「伊勢神宮」は籠神社の裏社紋「ダビデの星」の隠匿を命じ、マナの壺を御神体とした奥宮「天之真名井神社」の碑の改竄を命じている。碑にあったダビデの星を三つ巴に変えさせたのである。さらに、内宮と外宮の間に立つ多くの灯篭を、地震対策と称して、撤去を決めたが、数が多すぎることと、新たに立てる人が続出した為、棚上げになっている。
この伊勢神宮側の動きを見ても分かるように、記紀の仕掛けが暴露されることを、如何に恐れているかということである。
聖書学的に、アダムがエデンの園から追放されたのは、紀元前4000年とされている。しかし、これはあくまでも目安なので誤差はあるだろう。イエスが救世主(キリスト)として誕生したのが西暦の紀元1~3年頃なので、21世紀の現代は、アダムのエデン追放から6000年を過ぎたあたりである、。神の一週間からすれば、ちょうど土曜日が終わる頃で、すぐ日曜日の「福千年」がやってくる。
1998年8月、地球はホロスコープ上で太陽系の天体が四隅に集合する「グランドクロス」に入った。この時、地球は磔刑の象徴を身に受けたことになる。磔刑の苦悶は、イエスが救世主として使命を全うする産みの苦しみとなっている。それと同じことが、福千年が訪れる前の地球に必要なら、人類にもそれが降りかかることになる。
四隅の聖獣は「メルカバー(神の戦車)」であり、太陽、水星、金星が獅子座に集まり、火星、冥王星が蠍座に、天王星、海王星が水瓶座に、木星、土星が雄牛座の四隅に配置されている。この日、地球は巨大な十字架に掛けられる形となった。そのメルカバーに暗示されるのは大戦争である。それも並みの戦争ではない。「第3次世界大戦」は間違いなく起き、その後、未だかって人類が経験したことのない未曾有の大戦争が勃発する。人類最終戦争「ハルマゲドン」は、福千年の直前に勃発すると預言されている。
そんな時、女子供の様な弱者はいったいどうなるのか?
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々をしかった。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。子供たちを私の所に来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者達のものである。ハッキリ言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(「マルコによる福音書」第10章13~15節)
つまり、子供たちは救われるということである。ところが大勢の中には疑う人もいるかもしれない。
「ノアの大洪水のとき、大勢の赤ん坊や子供もいたはずだが、彼らはどうなりましたか?」
「ソドムやゴモラにも大勢の子供や赤ん坊がいたはずだが、彼らもどうなりましたか?」
その疑問に対する答えは明瞭である。
「神の国はこのような者達のものである」とするイエス・キリストの言葉にあるように、彼らは今、パラダイス(天国・天上界)にいて復活の機会を待っているということである。あるいは、イエス・キリストの磔刑以前に亡くなった子供たちは「大洪水」以前を含めて復活したかもしれない。カッバーラでは、人の生涯は死をもって終わるのではなく、生命の樹を昇って次の世に向かうと教えている。様々な事情で亡くなった赤ん坊や子供は、宗教的立場に関係なく、イエス・キリストの世界にいるということになる。彼らは遅くとも福千年の間復活する。だから霊において死んではいないのである。