(13)徐福と物部氏
渡来人「秦氏」には、徐福及び彼が率いてきた秦帝国の民の系統、いわば徐福系秦氏が存在する。しかし、徐福集団が皆、秦氏を名乗ったかと言うと微妙なのである。徐福がやってきた紀元前3世紀末ごろ、まだ日本には氏姓制度が無かった。徐福集団の末裔と言う記憶をもとに、後世、秦氏を名乗った可能性はあるが、当時は違ったはずである。しかも、王国を築いたとなれば、渡来人と言う意識ではなかったに違いない。大和朝廷が成立し、氏姓制度が整ったとき、多くの徐福集団の末裔は別の氏姓を名乗った可能性がある。「物部氏」である。物部氏は古代豪族の一つ。歴史上では、日本に仏教が導入されるとき、頑なに拒んだ神道の保守派である。縄文時代以来、日本には八百万の神々が宿っているとして、自然崇拝から神道が発生し、信仰の拠点となる祠や社、そして神社が作られてきた。奈良時代以降の古社の多くは、物部氏が関わっている。
平安時代になって、神道祭祀、特に宮中の祭祀が藤原氏と同族の中臣氏によって独占されると、同じく祭祀一族であった忌部氏と共に、物部氏は急速に没落していくが、神道の根幹は、彼らの中に封印され、今日に至るまで保持されてきた。物部氏こそ、イスラエルの血を引く徐福集団の末裔である。
古代における物部氏の拠点は二つある。一つは九州北部であり、もう一つは畿内である。「旧事本紀」によると、紀元2世紀ごろ、九州の物部氏が畿内に集団で移住したとみられている。仮に、物部氏のルーツが徐福集団とすれば、彼らが日本列島に上陸したのは九州だということになる。日本神話の天孫降臨の舞台が九州の高千穂にあることを思えば、確かに整合性は取れている。だが、徐福は2回船出している。気になることは、徐福が不老不死の仙薬を手に入れることが出来なかった理由として、海神の存在を挙げている点である。つまり、海神を崇拝する一族と言えば「海部」である。海部氏の拠点は、丹波地方である。海部氏が今も神職を務める元伊勢、籠神社の極秘伝によれば、大和朝廷の始元は丹波にあるという。つまり、徐福が最初に上陸したのは丹後であった可能性が高い。事実、丹後にも徐福伝説がある。徐福を主祭神とする新井崎神社の社殿からは海上に冠島と沓島が見える。ここに降臨した神の名は「天火明命」といい、籠神社の主祭神であるという。後世。徐福が自らが信仰する神と同一視されて祭神になったことは十分考えられる。籠神社の宮司・海部光彦氏の取材を通じて、飛鳥氏は徐福の最初の上陸地点が丹波であることを確信したという。したがって、2回目の出航で、徐福が上陸したのは九州である。
古代日本列島は大きく東側に縄文文化圏、西側に弥生文化圏があった。縄文人の形質を色濃く残すアイヌと沖縄の琉球民族が風俗風習は勿論、遺伝子的に近いのはそのためである。かって、熊襲や隼人と言ったイスラエル系弥生人が住んでいた九州へ稲作技術を持った徐福集団が渡来してきたことで、本格的な弥生時代が幕開けする。
「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の所在地は畿内である。三輪山の麓、纏向に女王・卑弥呼の王宮があった。卑弥呼も徐福集団の末裔、物部氏であった。厳密に言うと、丹波を拠点とする海部氏である。籠神社には、国宝に指定された「籠神社祝部氏系図」と「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」が伝承されており、後者の系図には、「日女命」と言う二人の人物が登場する。つまり、彼女たちは、邪馬台国の女王「卑弥呼」と「台与」である。ともに海部氏の血を引いている。彼女たちは特異な霊能力を買われて女王に推戴された。「魏志倭人伝」によると、2~3世紀の倭国は非常に混乱しており、邪馬台国の王として男性が立つも、全くまとまらなかった。しかし、卑弥呼が女王に即位すると、事態は収束し、世の中が治まったとある。状況から考えると、卑弥呼は邪馬台国の人間ではなかった。ほかの国から推挙されて女王になったのである。卑弥呼の故郷は「投馬国」だったらしい。投馬国の王家、すなわち海部氏の血を引く卑弥呼が、祭祀女王として招かれたのである。よほどすごい霊能力があったのであろう。女王は卑弥呼でなければならないという評価が高く、死んだ後も、同じ親族から女王が選ばれた。台与である。
邪馬台国は「後期邪馬台国」、あえて名づけるなら「大邪馬台国」となり、これが「前期大和朝廷」となる。「邪馬台」は「ヤマタイ」ではなく。本来の発音は「ヤマト」である。「ヤマト」には「倭」のほか、「大倭」や「大和」の字があてられるが、その名を冠した「倭宿祢」や「大倭氏」は、いずれも海部氏である。なぜ、「ヤマト」と称したのか? その理由はヘブライ語で「神の民」を意味するからである。今でもユダヤ人は特別な意味を込めて自らを「ヤマト」と称す。邪馬台国と大和朝廷、いずれも極東イスラエルを標榜しているのである。