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カゴメ唄の謎(12)

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(12)秦人と秦氏

 秦始皇帝が没すると、秦帝国は急速に衰退する。息子の故亥が第2代皇帝を称するも、続く子嬰は秦王となり、国号も「秦国」に戻る。そして、紀元前206年、最後は項羽によって秦始皇帝一族はみな殺しにされ、秦朝は滅亡する。

 問題は秦人である。秦国のイスラエル系の民は、その後どうなったのか? 戦乱に巻き込まれ多くの者は中国全土へと散っていった。その一部は、朝鮮半島に流入してきた。「魏志韓伝」には、秦人たちが「秦の役」を避けて、大量に移住してきたことが記されている。少なくとも、秦人たちが朝鮮半島に逃げてきたことは間違いない。

 秦人たちは朝鮮半島の先住民たちとは言葉も風俗風習も異なっていた。先住民たちは、秦人たちを嫌いながらも、朝鮮半島の東側の領土を分割して与えた。実際は、征服に近い状態だった。先住民たちが「馬韓」を建国すると、秦人たちは「秦韓」と「弁韓」を建国する。秦韓は「辰韓」、弁韓は「弁辰」とも称した。これらの三韓は3~4世紀ごろ、それぞれ馬韓から「百済」、秦韓から「新羅」、そして弁韓から「伽耶」が新しく建国される。当時、北部には強大な力を誇る「高句麗」があった。高句麗は「夫余族」という騎馬民族で、彼らの中にも秦人がいた。百済の王家は馬韓の人間ではなく、、夫余族であったことから、当時の朝鮮半島の国々にもすでにイスラエル系の民が住んでいた。

 だが、4世紀半ばを過ぎると一変する。「三国志」に描かれた中原の動乱が「魏」によって平定されたのもつかの間、多くの遊牧民、特に機動力を誇る騎馬民族が大量に流入し大混乱となる。朝鮮半島南部の三国も戦乱の舞台となり、多くの民が行き場を失って日本列島へと渡来してくる。倭国へやってきた渡来人の中で最大規模を誇ったのが「秦氏」である。彼らは大陸の高度な技術を持って倭国に産業革命をもたらし、養蚕から土建業に至るまで古代日本の礎を築く。宗教面では仏教はもちろん、神道にも深くかかわり、多くの寺社を建設した。

 いうまでもなく、渡来人「秦氏」は「秦人」である。一般に、新羅系渡来人と位置付けられているが、伽耶からも来ている。「古事記」や「日本書紀」をみると、秦氏自身は百済系渡来人を称していた。しかし、秦氏の出自については、「新選姓氏録」には、秦始皇帝の末裔であるときされている。秦氏の素性は非常にミステリアスで、少なくとも3つの系統がある。

 「義楚六帖」によると、日本に住んでいる秦氏は「徐福」とともにやってきた中国人であるという。徐福は、紀元前3世紀ころ、中国の「斉」という国に住んでいた方士、後にいう道教の呪術師だった。彼は言葉巧みに秦始皇帝に近づき、不老不死の仙薬の話を持ち込む。栄耀栄華を極め太秦始皇帝であったが、最終的に徐福の言葉を信じた。徐福は、不老不死の仙薬は蓬莱、方丈、瀛州山にあると主張し、しかるべき資金と装備、技術者、童男童女を託していただけるなら、秦始皇帝のために仙薬を手に入れてみせるという。見事、秦始皇帝の信を得た徐福は大船団を率いて、出航する。東海に浮かぶ蓬莱山を目指したが、徐福は戻って来ない。10年近くの歳月の後、姿を現したと思ったら、手ぶらであった。何の成果もないまま、徐福は秦始皇帝に謁見する。普通なら打ち首である。そこは天才詐欺師とも揶揄された男である。蓬莱山にたどり着いたものの、貢物が少ないため、海神から不老不死の仙薬を譲ってもらうことができなかったというのである。しかし、秦始皇帝は、再び徐福の言葉を信じて、豊富な資金と人材を託すことになる。かして徐福は再び出航し、東海の蓬莱山へと向かった。これが最後だった。以後、徐福は戻ってくることはなかった。失意のうちに秦始皇帝はなくなり、秦帝国は滅亡した。当時の噂によると、徐福は豊かな広沢平原に国を作り、王として君臨して幸せに暮らしたという。

 徐福のことは司馬遷の「史記」に記されている。近年、出身地が発見されて史実であることが認められた。不思議なのは、なぜ秦始皇帝が徐福の話を信じたのかである。その理由の一つとして、彼らが同族だったからだという説がある。徐福の姓は秦始皇帝と同じ「瀛」なのである。だとすれば、仙薬を捜し出すというのは、表向きの理由で、本当の目的は東海に浮かぶ蓬莱山に彼らの国を作ることにあったのではないかというわけである。彼らはイスラエル系だった可能性が高い。古代のイスラエル人は絶対神の預言に従って行動していた。徐福も預言者だったのではないかと思われるのである。そうであれば、秦始皇帝でも徐福の言葉に逆らえない。古くは出エジプトの大預言者モーセ、約束に地カナンへ向かったヨシュアのように、徐福は秦始皇帝の援助を受けて、失われたイスラエル10支族および東ユダヤ人を率いて、絶対神が示した理想郷、蓬莱山へと向かったのではないか。

 東海とは日本の別名で、三神山は日本列島のことだと信じられてきた。したがって、徐福は日本列島に渡ってきて、そこに王国を築いたことになる。さらには、日本全国には徐福伝説が数多くある。徐福伝説の地は、薩摩半島の秦波止や熊野市の波田須など、秦氏の関わる地名も少なくない。日本にやってきた徐福は「秦徐福」と名乗ったともいい、その子孫は代々、秦氏を称したという。


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