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カゴメ唄の謎(11)

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(11)イスラエルの暗号「秦」

 世界中に離散したイスラエル人たちは、様々なルートを通って日本列島へやってきた。アジアにおいて、両極の間に大きく広がる地域が中国である。中華帝国の略称と言うべき「中国」という名称は英語で「チャイナ」、日本語で「シナ」と呼んだ。これらの名称は最初の中華帝国「秦帝国」に由来する。「秦=シン」の名前は古く、春秋戦国時代の諸侯の一つ「秦国」に遡る。

 歴史的に「秦」という名称は地名に由来する。甘粛省の「秦亭」を拠点とする人々が「秦人」と呼ばれ、国号を「秦」としたという。だが、秦国は漢民族の国ではない。諸侯の中でも、西側に位置し、殆どの領土は西域で、かつ秦国の人々は遊牧民であった。古代中国において秦人には、「柵外の人」と言う意味もあった。そのために、他の諸侯からは野蛮な人々として侮蔑されていた。

 歴代の中国王朝には、「秦」を名乗った国が3つある。歴史学では「前秦」「西秦」「後秦」と表記する。いずれも、非漢民族が中原を支配した4世紀ごろ五胡十六国と呼ばれる時代に、それぞれ「氐族」「羌族」「鮮卑族」が建国した国々である。いずれも、遊牧民で、氐族と羌族はチベット系、鮮卑族はモンゴル、チュルク系と考えられている。遊牧民は他の民族を吸収していく傾向があるが、特に羌族の場合、明らかにイスラエル人の血が流れている。モンゴル、チュルク系の鮮卑族は騎馬民族で、スキタイの流れを汲む。スキタイはアッシリア帝国滅亡の原因を作ったとされ、その際、失われたイスラエル10支族を連行し、同化した可能性が指摘されている。

 古来、中国人はイスラエル人やユダヤ人ゆかりの国を名づける際、「秦」という文字を使っていた可能性が高い。アジアにおけるユダヤの暗号=イスラエル・コードが「秦」だったとすれば、全ての辻褄が合ってくる。「秦」をキーワードにして中国と日本の歴史を分析すると、古代イスラエルと日本人の関係が見えてくる。

 春秋戦国時代、中原から見て最も西に位置し、遊牧生活を送っていた秦国の人々は、漢民族ではなかった。シルクロードを通って移動してきた中東の民族、古代イスラエル人もいた。可能性が高いのは、騎馬民族と行動を共にした失われたイスラエル10支族である。

 紀元前221年、中国史上初となる統一国家、すなわち「秦帝国」を樹立。秦王政は、特別な意味を込めて「秦始皇帝」と名乗った。秦始皇帝の姓は「嬴」といい、氏は「趙」、諱は「政」。父は秦王の「子楚」だった。彼は、秦国ではなく、趙の首都である邯鄲で生まれ為、「趙政」とも呼ばれた。子楚の父、つまり秦始皇帝から見て祖父にあたる孝文王には多くの子供がおり、いわば人質に出されていた。本来ならば、秦王に即位できる立場ではなかった。これに目を付けたのが、「呂不韋」である。彼は巧みに子楚に近づき、自らの妾であった趙姫を差し出しで王妃にする。趙姫は子楚の子供を身もごり、誕生したのが後の秦始皇帝である。ここで、ひとつの疑惑が持ち上がる。王妃となった時点で、既に趙姫は懐妊していたらしい。つまり、実際は、呂不韋の子供ではないかという疑惑である。

 「史記」を記した司馬遷は、呂不韋こそ、秦始皇帝の本当の父親であると指摘し、「漢書」を書いた班固も同様な見解を示している。

 もし仮に秦始皇帝が呂不韋の子供であったなら、彼は濃厚にイスラエルの血を引いていたことになる。呂不韋は羌族なのである。羌族は失われたイスラエル10支族であることはアミシャープの調査で判明している。

 秦帝国は確固たる中央集権国家体制を固めることが出来た。これらの政治体制には後の中華帝国に継承され、ある意味、今日の中華人民共和国の礎になった。どうして秦始皇帝にそれが可能だったのか? 歴史学者の中には、西域、特に西アジアに影響があったのではないかという説を唱える者もいる。中でも多くの指摘がなされるのは、アケメネス朝ペルシャである。紀元前525年、メソポタミア地方を統一したアケメネス朝ペルシャは、ダウリス1世の時代、帝国を127の州「サトラップ」に分け、そこに太守、軍司令官、監視官を置いた。全土には幹線道路を整備し、各地に駅伝を設置。さらに貨幣制度を統一し、中央集権的な支配体制を確立した。

 何から何まで、秦始皇帝の政治体制と全く同じである。先行したアケメネス朝ペルシャの情報が後代に語り継がれ、それが秦帝国を生み出したという可能性は否定できない。これを裏付ける発見も2006年にあった。

 2006年6月28日、「新華社電」は、秦始皇帝陵兵馬俑坑で発見された遺骨に、ユーラシア西部の人骨が含まれていると報じた。つまり、秦帝国にはアケメネス朝ペルシャの統治下にあった人々の末裔がシルクロードを通ってやってきているのだ。アケメネス朝ペルシャは新バビロニア王国を滅ぼし、捕囚されていたユダヤ人を開放している。バビロン捕囚から自由の身となった南朝ユダ王国の人々の多くは、故郷のパレスチナへと帰還し、破壊されたソロモン神殿があった場所に第2神殿を建設している。だがこの時、全てのユダヤ人が聖地エルサレムへと帰還したわけではない。メソポタミアを中心にシルクロードを通って東アジアへと移動した者もいた。彼らの事を「東ユダヤ人」と呼ぶ。同じイスラエル系である秦始皇帝が支配する中国において、彼らは非漢民族にして柵外の民族と言う意味で「秦人」と呼ばれたのである。


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