(6)葵祭と藤祭
仏教には宗派があり、それぞれに総本山がある。しかし、神道は一つである。天皇を大祭司とする神道は伊勢神宮を頂点にして、多くの神社が全国に存在する。極論すれば、全ての神社は天照大神の直系子孫である天皇のものであると言っても過言ではない。
だが、神社の頂点は伊勢神宮ではない。伊勢神宮よりも格が高い神社がある。京都の賀茂神社である。下鴨神社「賀茂御祖神社」と上賀茂神社「賀茂別雷神社」、すなわち下上賀茂神社こそ、最高位の神社なのである。かって、伊勢神宮に天皇家の皇女が巫女として仕えた。第10代・崇神天皇の時代、皇女である豊鍬入姫命が天照大神の御杖代となり、続く第11代・垂仁天皇の時代に同じく皇女である倭姫命が斎王となって以来、多くの皇女が伊勢神宮に奉仕してきた。同様に、下上賀茂神社でも、この斎王制度があった。
皇女が斎王として下上賀茂神社に赴くとき、勅使が出迎え、煌びやかな牛車などを従えて行列を成した。これが今日の「葵祭」のルーツである。伊勢神宮が「神宮」であるのと同様に「祭」とは本来、この葵祭りを指した。今日では、毎年5月15日に、勅使代が斎王代を迎え入れるさまを雅な平安絵巻として再現している。しかし、葵祭における祭礼の中心は、3日前に行われる秘際にある。下鴨神社では「御蔭祭」、一方の上賀茂神社では「御阿礼神事」と呼び、いずれも御神体山にある榊を聖別し、そこに神を降臨させる儀式が行われる。
本来、「御蔭」とは光の古語で、「御阿礼」は新たに生まれることを意味する。下上賀茂神社の祭礼に関わる神職の極秘伝によれば、葵祭の本質は光の再生にあり、その起源は天岩戸開き神話なのである。
由来書によれば、葵祭の起源は欽明天皇の時代、天候が荒れて飢饉が続いたので、人々が賀茂大神を祀ったのが始まりとされるが、実は、それ以前から祭礼はあった。ただし名は葵祭ではなく「藤祭」と言った。
しかも、藤祭を執り行ってきたのは下上賀茂神社ではなく、丹後一宮の籠神社である。下上賀茂神社の葵祭では祭員に冠に葵の葉をつけるのに対し、籠神社の藤祭では藤の花をつける。籠神社の伝承によると、葉っぱではなく、花をつけることからわかるように、葵祭の起源は藤祭にあるのだという。しかも、注目してほしいのは、「藤」である。神道の基本は言霊である。一つの言葉に幾重にも意味を込める。藤もしかり。藤祭の本質は「不二祭」なのである。つまり、「葵祭=藤祭」とは、「光の死と再生」のみならず、「不死」をも意味する。天岩戸開き神話にあるように、光の神である天照大神の死と復活、そして不死不滅を象徴しているのである。
古来、日本では高貴な方が亡くなると「御隠れになる」と言う表現をしてきた。神道の最高神である天照大神が天岩屋に隠れたとは、死んだことを意味している。記紀によれば、天岩屋隠れの原因となったのは、弟スサノオ命の乱暴狼藉であり、その際、天照大神は体に傷を負っている。神学的に解釈すれば、この時、天照大神は稚日女尊として死んで天岩屋に隠れた。死んで天岩屋に隠れたとは、すなわち、横穴式墳墓に遺体が葬られたことを示している。学術的に天岩屋には、古代における墳墓、すなわち古墳のイメージが投影されている。
天岩戸開き神話は日食があったことを伝えているのではないかともいう。古代人にとって、太陽が欠けていく光景は恐怖そのものだったに違いない。だが、日食は長くは続かない。再び太陽は元の姿となり、地上に光が戻る。ここから、天岩戸が開かれて天照大神が復活したという神話が形成された可能性もある。
さらに、天照大神の正体を卑弥呼だとする学者の中には、彼女が死亡したと解釈する説を唱える者もいる。「魏志倭人伝」によると、卑弥呼が死んだとき、邪馬台国は混乱に陥った。結局、卑弥呼と同じ霊能力を持つ親戚の台与が女王に即位した。邪馬台国の女王である天照大神は卑弥呼として死んで、台与として復活したというわけである。
確かに、天照大神を二人の邪馬台国の女王、卑弥呼と台与と見做せば、天岩戸開き神話をうまく説明できる。伊勢神宮の内宮の祭神である天照大神を卑弥呼とし、対を成す外宮の祭神の豊受大神を台与とすれば、うまく整合性が見いだせる。しかし、問題は、天照大神が天岩屋から出てくる際、天太玉命が入口に注連縄を張って「もう二度とは入ってはなりません」と宣言することである。ここが重用なのである。天照大神は甦っただけでなく、もう二度と死ぬことはない存在になった。不死不滅の最高神となったのである。下上賀茂神社の葵祭と籠神社の藤祭は、これを祝福している。邪馬台国の卑弥呼と台与は人間である。君臨すれどもやがては死ぬ。本当の天照大神は別にいるのである。天岩戸開き神話を通じて、死と復活、そして不死不滅の存在になった天照大神と何者なのか?それを知るためには、本当の神道を知る必要がある。