(14)徐福がニギハヤヒと名乗り、神武天皇(応神天皇)以前の天皇になった?
秘密結社としての八咫烏の事を知らない読者のために、飛鳥先生から説明していただけませんか?(編集部)
これシンプルな話なのです。まず、八咫烏と言う名前が登場するのは、古事記や日本書紀で神武天皇が東征したときである。(飛鳥氏)
そうです。道案内として登場している。(山口氏)
道案内したということは、最初からそこにいたということであり、八咫烏=物部氏が大和の地に先にいた。そして、その物部は徐福の末裔である。籠神社の海部光彦宮司にそのことを聞いたら否定しなかった。否定しないことは認めたということである。ただ、徐福は中国から来たが漢民族ではない。ユダヤ人である。まず、徐福の姓は嬴(えい)といい、徐福を2回も日本に送り込んだ秦の始皇帝と同じ姓で、始皇帝の本名嬴政と言う。さらに当時、日本は蓬莱、あるいは瀛州と呼ばれていた。つまり、徐福も始皇帝も「日本」を意味する姓を持っていた。(飛鳥氏)
じゃ、秦の始皇帝も徐福も漢民族ではなく日本人だった。それでいてユダヤでもあった。つまり、日本=ユダヤだから。(山口氏)
そう、秦の宰相だった呂不韋と言う男がいるが、この名前は「癒し手」と言うヘブライ語なのだ。彼の正体は祭祀を司るレビ族であり、始皇帝はその呂不韋の子供だと言われている。これは中国最古の歴史書を著した司馬遷が「史記」に書いている。その始皇帝が蓬莱、つまり日本に派遣した徐福は「ジョゼフ」なのである。つまり、始皇帝も徐福もユダヤのレビ族であり、その徐福が日本に渡ってきて物部氏になったわけである。徐福は、紀元前4~5世紀の頃に日本に来て、1回目の上陸したのが籠神社のある若狭湾だった。2回目は九州だった。この徐福がニギハヤヒと名乗り、その末裔が神武天皇以前の天皇の地位に就いていた。(飛鳥氏)
だから、日本へ最初にやってきたユダヤは物部氏であり、この物部氏が当時の西日本にいたネイティブだった王家に婿入りする。紀元後3世紀の神武天皇は間違いなく秦氏の王である。秦氏は物部氏の後に来たユダヤである。崇神天皇、応神天皇、神武天皇は同一だという説がある。これは籠神社の海部宮司が「神」という名前が付く天皇はみな同一人物だと言っている。その秦氏の王である神武天皇を導いたのが物部の王の遣い(八咫烏)だとすれば、それはある種の手打ちなのだ。一方、ニギハヤヒ(物部)の下にいたナガスネヒコは日本のネイティブで、反逆したから粛清されてしまった。(飛鳥氏)
土着だったから。(山口氏)
土着の民として反抗して結果的にやられてしまった。ニギハヤヒ(物部)と神武(秦氏)との間でどういう手打ちになったかと言うと、同族である印を見せ合って、同じ民族と言うことで戦わなかった。同じユダヤだということだが、物部は旧約聖書の方である。後からやってきた秦氏が新約聖書を信じていた人々である。つまり、原始キリスト教徒である。詳しく言うと、神武天皇(応神天皇)が九州の宇佐神宮の祖宮とされる薦(こも)神社の三角池でバプテスマ(洗礼)を受け、新約聖書を受け入れた為、部下たちも同じ儀式を受けた。彼らの中には南朝のユダ王国から脱出した2支族とレビ族がいた。伊勢神宮と言えば、内宮と外宮が有名だが、伊勢神宮のルーツは、現在は別宮扱いになっている伊雑宮であり、物部は「もともと、伊勢神宮とは我々の伊雑宮だったよ」と主張している。(飛鳥氏)
ちなみに、この伊雑宮は以前、海岸にあって、その後に移された配置がオリオンの3つの星と一緒である。大事なのはここからで、神武天皇は戦う天皇だった。だから、ユダヤの中のガド族だと思う。ところが、武烈天皇と継体天皇との間で血統の断絶が起こる。10支族の中で争いが起こるわけである。誰が天皇の地位を継ぐかということになり、そこでレビ族へ白羽の矢が立った。もともとレビ族はモーセの一族だから、レビだったら文句はないだろうという話になった。(飛鳥氏)
じゃ、継体天皇はレビ族ですか?(山口氏)
そう、継体天皇はレビ族だった。そして、それ以降の天皇は神事を行うことになる。レビ族は、祭祀を行う支族だから当然である。応神天皇5世というのは、五芒星を持つ同族(ヘブライ人)の意味で、入れ替わりに問題なしの示唆である。そもそも、この頃の系図は仕掛けだらけで、後年の福原不比等の作である。ところが、南北朝の時に南朝と北朝で交互に天皇になるという約束を北朝が反故にして幕末まで続くというのが大まかな流れである。(飛鳥氏)
南北朝の対立とは、10支族の内紛だったというわけね。(山口氏)
内紛なんだけで重要なのは、北朝系は付け焼刃の天皇でレビ族ではなかった。しかし、これもある意味で出来レースと言うかね。崇徳天皇が仕掛けた呪いが成就しなければならなかった。(飛鳥氏)
*第25代・武烈天皇(在位498~506年)の死後、後継者が無かったため、北陸地方から応神天皇5世の孫を大和に呼び寄せて、皇位を継がせた。それが継体天皇となった。