(15)物事には必ず善の意図があると思えば必ず打開していく!
五島氏が見た高次元の図はどこにもない。いろいろ調べたのだが,こういう図が載っているのは見たことがない。だから、これを発表するのはやめていたという。なぜかというと、世界に2つとないからである。つまり、客観性に乏しいと思い、発表するのをやめていたのだが、何年たっても同じようなものが出てこないから、発表してみたという。
特徴的な点は、赤い炎になっている所があることである。これは6次元神界だという。これは燃える炎であり、試練を表すという。これ以上ないような不幸というのは、神界の炎が私たちの人生を通過した状態だという。つまり、炎と言うのは、悪いものを消しているのだという。癌でも、不幸でもやってきたら、自分の中の悪いものを浄化してくれていると思うと、スーツと通過していくという。物事には必ず意図がある。正しい信仰と言うのは、起きていることには善があるということである。これを貫けば、人生のいかなる場所でも、人生のいかなる局面でも、必ず打開策が出て来る。
五島氏が言いたいのは、物事には必ず意図があるということである。神様が人間を苦しめるためにわざわざこの宇宙を創りますか? わざわざ皆様をこの地球に降ろしますか? もしそうだったらサドである。人間が苦しんでいるのを見て、やはり神様は苦しんでいる。私たちが苦しんでいるのを見て楽しんでいる神様は絶対にいないはずである。絶対に人間を幸せにしたいと思っているはずである。
そうであれば、その心を最後まで信じ通し、その信念を持てば、必ず人生には活路が開く。毎朝起きたら、朝は祝福で始まる。「今日は素晴らしい日です」と起きる前に言う。そして、夜、休む前は感謝する。「今日はとてもいい日だった」と。
旧約聖書には、神様はモノを見て祝福されたと書いてある。神は名前で呼ばれた。山よ、お前は美しい。川よ、お前は清らかである。名づけることによって祝福して行かれた。出来事が問題ではない。名付け手の私たちが、いいか悪いかを決めるのである。お金がない時も、「うちは貧乏だね」と言うのではなく、「預金が枯れ葉のように舞っている。秋なのかしら」と言えば、情緒がある(笑い)。モノは表現のしようである。起きた現象は一緒でも、それを鑑賞する立場の私たちが何と言うかである。
五島氏が幽体離脱をしてあの世に行ったときに、この世はローマの円形競技場と全く同じだと気づいたという。群衆がずーっと段になって、真ん中で私たちの人生が展開している。想念がエーテル体、アカシックに送られて、それが現像されるのだという。アカシックと言うのは、過去を記録するだけではない。想念を実現化するという積極的側面がある。現代の不思議な世界を探求する人に欠けている点は、アカシックと言うのは過去に起きたことを記録すると書いてあるが、実は現像能力もあるという。この2つの側面を持っているのがエーテル体空間だという。そして、円形競技場の中で私たちは競技をやっているという。守護霊軍団や天使軍団、大天使が上の方にいて、私たちの身近な守護霊は近くにいて、真ん中で私たちは人生劇場を演じているというのである。
例えば、第1志望校に落ちて、第2志望校に合格したとすると、私たちは失敗したと思う。しかし、後ろの応援団は「よかった。あなたが一番行きたいところに行けた。あなたはそこに行くべきであり、頑張って」と言っているのである。ところが、当の本人は落ち込んでいる。見捨てられたと思っている。
神は私たちの魂が最も活躍できる場所を選んでそちらに持っていく。それは、私たち人間にとっては一瞬不幸に見える。でも、魂にとっては幸福なのである。物凄いエールを送っているのに、私たちには聞こえなのである。そして天使は私たちがやることを学んでいるという。下手すると、天使より肉体人間の方が偉いかも知れない。なぜか、彼らは肉体労働していない。残業手当をもらった天使って、聞いたことがありますか(笑い)。ないでしょう。私たちが働いているのを見て、エールを送って、学んでいるという。
天使たちも、私たちの生きている姿を見て、涙を流し、エールを送っているという。私たちは、良かれと思ってその環境、その国を選んだのである。だから、天使たちは、寿命が終わるまで頑張ってと、死に物狂いでエールを送っている。「最後まで笑って生きましょう。おギャーと泣いて生まれてきたのです。死ぬときはにっこり笑って死のうではありませんか」(五島氏)