(14)座標変換がもたらす世界平和
政治の世界にしても、医学の世界にしても、私たちは、そもそもが何が善で何が悪かを知らず、「これが悪だ」と思って批判していたのである。
何が善で何が悪かを問うことを私たちは概ね1600年ごろ止めてしまった。この頃は羅針盤などが利用され、航海術は進歩した。マゼラン、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマは、地球は1つの球体であるから、航海技術が発達した国が世界を制覇できると考えて、地球を1周する航海に乗り出した。
1600年以降、人間の考え方は、地球は平板上であるから果てまで行くと落ちてしまうという宗教の発想ではなく、科学中心になった。善悪も、古代ギリシャで考案され、プラトンがよく論じていた真善美の内の善について、1600年以前は、宗教家ないしは哲学者が考えるものとされていた。
有名なところでは、深い瞑想によって神様が何が善で何が悪かを教えてくれるという「神学大全」を書いた宗教家トマス・アクィナスがいる。しかし、1600年以降になると、デカルトが登場して、長さを測ったり、人と比較する尺度である座標を作った。座標の原点はあくまでも自分だから、自分から見て、いいか悪いかという自分中心の座標の概念が生まれた。
その後、アインシュタインが座標を使って、「あなたの座標から見たら右の方向にいるように見えるけど、私の座標から見たら、左の方向にいるように見える。あなたの座標と私の座標は違う」という考え方を提案した。座標が違うということは、あなたが考える善悪とは何か、あなたが考えるよき夫、良き妻とは何か、このすり合わせから入らないと駄目である。このすり合わせのことを座標変換と言い、この座標変換の中にローレンツ変換がある。
ローレンツ変換は座標変換であって、座標変換は日常生活でも使える。例えば、今会社の現状についてみんなで話し合いをすることになった場合、働くとは何かという価値観が人によって全然違う。ある人は、決められた時間内に結果を出すことが仕事だから、定時が来れば上がっていい。ある人は、努力と根性で夜が明けるまで居座るのが仕事だと思っている。お互いのすり合わせをせずに、いきなり「不満があったら言ってごらんなさい」と言うと、これは不満爆発会議になってしまうので、その時は座標の変換が必要である。
日本は言挙げしない国である。基準や定義を言葉にする風習があまりない。今から日本社会に必要なことは、何が善で何が悪か、部長とは何か、管理職とは何かを言挙げすることが必要である。そうしないと、コミュニケーションがうまく取れないと思われる。(五島氏)
日中間の領土問題にしてもしかりである。空き地を例にとると、日本では草ぼうぼうの空き地に囲いを作って、「自分の管理地です」と書いておけば、おそらく良識ある日本人だったら、その空き地には手を出さないはずである。ところが、中国では、確かに「管理地」と書いてあるけど、ずっと観察していたら、3年も5年も草ぼうぼうで何も管理していない。だから「取って良い」という発想になるかもしれない。外交問題を解決して世界平和をもたらすためには、言語学者が間に入って、「あなたたちの考える領土とは何ですか」という所のすり合わせ、座標変換から入らないといけないのではないかと思われる。(五島氏)
似たようなことを言語学者のノーム・チョムスキーが言っている。
数学の世界で発見されたものが物理に応用され、物理で発見されたものが日常生活に応用されるまでに、約50年の猶予がある。五島氏が物理にこだわるのは、既存の宗教や哲学ではもう世界を変えようがない。自然は嘘をつかないから物理学に学べばいいと考えているからである。