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聖徳太子の「未来記」開封(68)

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(68)本物の神は古今東西一つでつながっている(その2)

 アメリカの巨大な軍事力を背景に世界中を牛耳る獣は、世界を42か月(3年半)しか支配できない。その間、獣はイスラエルの第3神殿に神として座る。世界は再び緊張し、ロシアと中国は微妙な動きを見せ始める。

 獣は自分を神として崇めるよう世界に向けて発布し、バチカンを中心に集結する世界宗教はそれを認める。つまり、獣が新たな救世主となり、獣が神となる宗教が誕生するのである。

 アメリカと歩調を合わすユダヤ教は別として、イスラム教はそれを断じて認めないだろう。だから彼らは現在のアフガニスタンやイラクのように次々と虐殺されていく。偶像礼拝を拒絶するイスラム教徒たちは、偶像を礼拝し獣に従うよりも死を選ぶからである。

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第13章15節)

 「第二の獣」とは、666のもう一匹の偽預言者を指し、獣の肺かで圧倒的な力を持つ宗教指導者を言う。仏教は完全に消滅して獣に支配される。同じ仏教の創価学会も獣に従うことになる。

 同じことを獣は原始キリスト教会に命じて来るが、彼らは獣に従わないだろう。そして、二人の預言者をエルサレムに送るのである。

「「私は、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」 この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。この二人に害を与えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを血に及ぼすことができる。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章3~6節)

 「二人の証人」とは原始キリスト教会に属する神権を持つ男性で、神界が三位三体であることと、イエス・キリストがヤハウェ(エホバ)であること、そして悔い改めてバプテスマを受け救いを得よと世界中に宣言する。

「千二百六十日の間、預言させよう」とあるように、1260日は約3年半となる。それはエルサレムが包囲される3年半とほぼ同じで、彼らはその間、イスラエル各地でイエス・キリストのように伝道する。彼らを妨げることはできない。なぜなら、「二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう」とあり、「この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される」とあるからである。

 実際、口から火が出るのではなく、二人の言葉により妨害者が地に倒れ、命を失うのだろう。日本では口から発する言葉が現実になることを「言霊」というが、それは預言と同じ意味である。

 獣を恐れる心配はない。イエス・キリストに従えば、死んでも生きる。その答えはイエス・キリストと同じ復活にある。

「イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は行き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」」(新約聖書「マタイによる福音書」第11章4~6節)

「マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第11章24~26節)

 すべてが復活にかかっている。復活はただの蘇りを言うのではない。神と同じ不死不滅の体で、生前の記憶を有しながら、しかも最高の状態で蘇ることである。現代、無神論が支配する日本では、死ねばすべてが終わると思っている。しかし、世界では僧ではないと信じる人が無数に存在している。特にキリスト教は、レベルの差はあっても人類の復活を信じている。復活は、霊と肉体が合わさって人が構成されることが大前提で成り立つ。それを信じない人は、その段階でキリスト教から振り落とされる。イエス・キリストが振り落とすのではなく、その人が自ら自分の判断で離れていく。勿論、キリスト教と言っても宗派が幾つもあり、どれが正しいかも一目だけではわからない。

 そこで見極めの絶対条件がある。それが原始キリスト教か否かである。まず原始キリスト教徒はマリアには絶対に祈らない。なぜなら「新約聖書」のどこにもイエス・キリストがマリアに祈れと語っていないからである。原始キリスト教徒は危機にある造化三神(元初三神)と、秦氏の三柱鳥居同様、三柱のそれぞれ独神と信じている。つまり三位三体を基本としている。さらにイザヤやヨハネのような預言者が必ずトップに存在する。

 しかし、夜に中にはオウム真理教のような偽預言者の集団も多いので要注意である。偽預言者がゴロゴロ存在しているのである。それに原始キリスト教徒は世界総統が世界を支配する間、666の数字を見に受けることはない。それが最後の見極めになるだろう。それを信じない者は獣の側に立たされざるを得なくなる。中立やグレーゾーンは存在しない。なぜなら獣が世界中を支配するからである。この時、自分の身に獣の所有物を示す数字666が打たれるのである。

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第13章16~17節)

 獣を神と祀る以上、仏教は消滅して存在しなくなる。これが「未来記」の預言する仏教消滅の真相である。「新約聖書」が正しければ、創価学会は消滅して世界宗教に吸収され、日本人に獣の数字を打たせる手先となる。

 現在、日本人のほとんどは、死ねば塵と名「厭世主義」の信奉者である。だから霊魂などはないと思っている。たとえ、TV、映画、漫画、小説などの霊が出てきても、エンターテイメントであり、遊び感覚で霊を楽しんでいるのが大多数である。あるいはむやみに得体の知れない未知なるものを怖がるか、自分の身に祟りが来るのを恐れているだけである。

 そんな厭世主義に特有なものは、虚無、無力感、悲壮感で厭世主義は神仏の存在を認めない共産主義の代名詞でもある。その意味でいうと、今の日本人のほとんどが共産主義者、あるいは社会主義者と言える。「冥府気を祈ります」と言葉で語っても、習慣的な言い回しに過ぎない。日本人のほとんどは神仏など信じていないからである。悲しんでも儀礼の言葉に過ぎず、その場の雰囲気に必要な一つの習慣である。あるいはマニュアル書にあるので使っているだけである。「黙祷」と言っても、ほとんどは目を瞑っているだけで、別のことを考えている。今のままなら、世界の終末時に日本人の救われる数は少なくなる危険性がある。


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