(57)すべてを悪用する親鸞
「第十三章の2の読み下し文」
黒衣袈裟を着けずして鼠毛の白衣を整え 戒律を受持せずして女犯を許し 斎食を行とせずして肉味を喰らい 仏寺を汚して神社を穢す
(現代語訳)
諸々の僧を供養することをしないで、自分が育てた僧だけを絶対的に信頼し供養する。黒い色の袈裟を身に着けないで、鼠の毛でこしらえた白い色の法衣をそろえ、戒律を守らずに、受精と交合することを許し、斎食を実践しないで、肉を食べ、そうして仏寺や神社をも汚す。
(現代注釈訳)
「戒律」とは宗教における生活規律のことである。「斎食」とは肉食をしないことを言う。
(歴史的事実)
一遍が「熊野神社」や「伊勢神宮」を己の布教の出汁にしたように、日蓮は他の宗派を足蹴にすることで布教に成功し、親鸞も浄土信徒を吸収しながら拡大に成功する。しかし、三悪僧はいずれも罪人となる。念仏三昧を説いた浄土宗の法然は佐渡に流罪され、浄土真宗を説いた親鸞は越後へ、その両者を誹謗することで拡大に成功した日蓮は伊豆と佐渡に流されている。それを弾圧と言えば聞こえがいいが、「未来記」はそれを、仏法を誤らせた行為で当然の罪業と説く。
(仏教を本来の道から逸らせ葬式仏教に貶める)
「第十三章の3の読み下し文」
俗男俗女を集めて亡者を弔い 以って自家の得體と為し 歸入の輩を惑わして畜生道に音さ令む
(現代語訳)
一般の人々を集めては亡くなった人の葬式を行い、それを正体とする 。行くべきところに落ち着いた者たちを惑わし、そうして畜生道に堕とさせる。
(現代注釈訳)
「畜生道」とは生前に悪行をなした者が赴く世界。禽獣の姿に生まれて苦しむことを言う。
(歴史的事実)
現在、仏教は葬式を担当する職に定着し、「葬式仏教」が日本の常識として通っている。また、京都や奈良は「観光仏教」が文化として定着し、誰もがそれで何とも思わない。一方、地方の寺は廃村や檀家の消失から廃寺となり、都市部の寺も墓参りする者がなく墓も捨てて置かれたりする。
こんな寺の有様を末法の世と言い、最近では「宗派を問わずご相談ください」というのが呼び込みの常識で、寺の方からすり寄っている。もはや宗派のポリシーは霧散し、寺ならほとんど同じになってしまった。厳密に言えば、お経が違うが、一般人でそこまで気づく者は少ない。
一見平和に見えても、真の仏教は行動する仏教であり、タイ、ミャンマー、チベット等と比較すればその差は歴然としている。日本の今の住職は、ソロバンが欠かせない。
仏教徒は出家し托鉢に出る。それが海外の仏教国では当たり前のことである。日本人でも「我が家は仏教徒」と称するなら、最低限、寺の掃除くらいはすべきではないだろうか。
葬式や法事をやるだけでは、仏壇はあっても空洞仏教である。要は、お経も読めない似非仏教徒の集合と化しているのである。だから正月と七五三は神社へ、結婚式とクリスマスはキリスト教という、節操のない日本人が出来上がった。これでは口に入る者は何でも喰らう動物と同じで、これを仏教では畜生道という。三悪僧がなしたことは、末法の世を本当に具現化させたことなのである。
(既得権益を守るだけの仏教集団と化す)
「第十三章の4の読み下し文」
故に王臣は許さずして犬衆と名付け 将守は信じずして悪黨と呼ぶ 此の一党は仏法の僧の儀式に違えて外は王公将守の法度に背く
(現代語訳)
そのため君主の家来はこれを認めずに犬衆と名付け、諸郡やその兵たちも誰一人信心することなく、悪黨と呼ぶ。この一派は仏法の作法に背き、そして王公や将守の掟にも背く。
(現代注釈訳)
「犬衆」とは畜生道に入った者、または将来において招き寄せる者の意味。「悪黨」とは悪人の意味だが、同じ表現を武士に使う場合は意味が少し違ってくる。当時の武士たちが使った悪党は社会秩序を乱す者の他に、既得権益を守る集団を意味することが多い。そのため地方豪族で既得権益を守った楠木正成も悪党と記述されることが多かった。
(歴史的事実)
鎌倉時代、最盛期を迎えたはずの仏教の事態は、混乱の極みに達した仏教だった。その結果、旧仏教諸派と真仏教諸派に大きく二分されてしまう。旧仏教は主に体制側が支え、新仏教は民衆側が支え、時に両者は大きく対立するようになる。