(52)口先の方便で人を陥れる悪僧(日蓮)
「第十一章の3の読み下し文」
濁劫悪世の中多く諸の恐怖有り 悪鬼その身に入り我を罵詈毀辱する 濁世の悪比丘は仏の方便随喜の所説の法を知らずして悪口し而して顰蹙數數と擯出せらる
(現代語訳)
いつ果てるとも知れない、乱れた世の中には、様々な恐怖があり、悪鬼はその身に入りこんで自分自身を罵り傷つけて辱める。この世の悪僧は、仏の方便やありがたい経典を理解しようともせずただ悪口を言い、そうして眉をひそめて度々排斥される。
(現代注釈訳)
「方便」とは衆生を教え導くための巧みな手段を言う。下手をすれば嘘も方便というように、詐欺的な行いに通じる危険性がある。「悪口」とは悪い口のこと。悪は魔であり、魔の口は悪魔の言葉となる。日蓮は動機の面でも行動の面でも悪道に入ると「未来記」が預言している。
(歴史的事実)
日蓮は罵詈雑言といとわない悪口の僧だった。それ故に、あちこちから排斥され、伊豆にも佐渡にも流されている。それを勇気ある行動という者もいるが、インドの聖人マハトマ・ガンジーと比べるとその差は歴然とする。
ヒンズー教徒だったガンジーは、いつも静かで物腰が柔らかく、家族や他人に優しい言葉を使い、イスラム教徒に対しても誰よりも寛容だった。強大な敵に対しては「非暴力・不服従」の姿勢を貫き、ついに大英帝国を追い出して独立を勝ち得る。暴力には言葉による暴力もある。だからガンジーは敵に対しても言葉の暴力を振るわなかった。
1937年から1948年にかけ、5回も「ノーベル平和賞」の候補に挙がっても、本人が固辞したため受賞に至っていない。これを真の聖人という。平和賞が欲しい日本のどこかの宗教団体の御仁とは大違いのようである。
(参考資料)
興味深いのは「悪鬼その身に入り我を罵詈毀辱する」の箇所で、悪鬼が人に体に入り込むとする内容である。これは、悪鬼が骨肉の体を持たないことを聖徳太子が知っていたことを意味する。それは霊を意味し、悪鬼は悪霊と同じ意味になる。するとイエス・キリストが語った以下の言葉と全く同じになる。
「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊にとりつかれた者が二人、墓場から出てイエスの所にやって来た。二人は非常に狂暴で、誰もそのあたりの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」 はるか彼方で多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った」(新約聖書「マタイによる福音書」第8章28~32節)
悪鬼は巨漢の鬼のことではない。悪鬼とは骨肉の無い悪霊のことで、人に憑依して悪魔の道具にしてしまう者のことを指す。「未来記」はそのことを、「日域を奪領して鬼国と為さんと欲する」(第四章)、「奇特を現して諸人の信敬を被り 施主を引きて地獄に堕とさんと為す」(第五章)と伝えている。