(51)悪僧は自己中心的な行動だけに終始する!
「未来記」第一章の全文」
同經第五云 悪世中此丘邪智心謟曲 末得謂為得我慢心充満貧著利養 故與白衣説法為世所恭敬 如六通羅漢自作此経典 誑惑世間人為求名聞 故分別説是経 濁劫悪世中多有諸恐怖 悪鬼入其身罵詈毀辱我 濁世悪比丘不知仏方便随喜所説法悪口 而顰蹙數數見擯出
(第十一章の1の読み下し文)
同経第五に云う 悪世の中比丘は邪知にして心謟曲し、末得ずに得為りと謂ては我慢心充満して利養に貪著する
(現代語訳)
同経(法華経)の第五には、悪い世の中では悪知恵にたけ、心は疑いで歪み、まだ悟りを得ていないのに得たと言っては、高慢な心を満足させ、理欲を貪って自分の身を肥やすことに執着する。
(自ら経典を作りて人を迷わせる)
「第十一章の2の読み下し文」
故に白衣を以て説法し 世の中の恭敬する所と為す 六通羅漢の如く自ら此の経典を作りて 世間の人を誑惑し名聞を求めんと為す 故に分別してこの経を説く
(現代語訳)
それ故に、白い色の衣で説法しては世間に慎みをもって敬われる。六通を得た阿羅漢の如く経典を自ら作って世間の人を誑かして惑わし、名誉を得ようとする。祖に御為の試案をめぐらしてこの経を説く。
(現代注釈訳)
「六通」とは6種の神通力のことで、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽を指す。天眼とは千里眼のこと。天耳とは様々な言葉を瞬時に聞き分ける力。他心とは人の心を読み取る力。宿命とは運命を先見する力。神足とは瞬間移動する力。漏尽とは己の能力を非凡として悟られない力を言う。解脱した仏陀はその能力を持っていた。
国史である「日本書紀」や、様々な伝説を額面通り歴史として受け取った場合だが、聖徳太子にも仏陀と同じ六通の力があったことになる。
「未来記」、「未然記」を残した段階で、千里眼なる預言の力があったことになる。10人の言葉を聞き分けたのも天耳であり、一つ間違えれば比礼ともいえた書簡を中華思想の隋の皇帝に送ったのも、煬帝の性格を見抜く他心通に通じていたからとなる。さらに「聖徳太子伝暦」にある甲斐の黒駒に乗って、富士山の上空を遊泳し、一矢にして舞い戻った力は神足だし、同じ「聖徳太子伝暦」に、推古29年(621年)2月、斑鳩宮で死を予知した太子が、膳妃(菩岐岐美郎女)と共に遷化したあるのは宿命である。最後の漏尽についても、聖徳太子は己の力を仰々しく見せつけず、絶えず謙虚で平凡に暮らそうとしていたことで示されている。
「阿羅漢」とは、仏教の修行の最高段階に達した人のことである。要は己の解脱者と妄信し、自ら経典を生み出す行為は、正道を離れた外道の成すことと「未来記」は戒めている。
(歴史的事実)
日蓮の「種種御振舞御書」には、以下のような記述がある。
「江のしまのかなたよりひかりたる物まりのようにて辰巳のかなたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのようにて人々の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れ」
しかし、疑問がある。雷光が刀身を砕き織るほどの神意が現われらのであれば、なぜその場で解放されず、そのまま佐渡島へ流罪になったのだろうか?
さらにこんな記述もある。
「日蓮が去ぬる文応元年(太歳庚申)に勘えたりし立正安国論今少しもたがわず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもとらず未代の不思議な事かこれにすぎん」
ここに「未来記」が登場するが、正確に言えば、「法華経」に記された未来記のことである。預言はユダヤ教やキリスト教の専売特許ではない。ヒンズー教にも記されている。宗教とはそういうもので、まだ見ぬものを知ろうとする思いが信仰だが、今の日本人はそんな宗教理念は忘れ去っている。
弘安5年(1282年)10月13日、日蓮は武蔵国の池上宗仲邸で61歳で死去するが、その時、大きな地震が起きたとされている。さらに晩秋から初冬の時期に関わらず、桜の花が咲いたという。
偉人には不思議が付きまとうようだが、生前の日蓮の記録にあるように大きな地震は鎌倉時代では日常的で、飢饉も同じだった。その飢饉を興す異常気象は天候不順を起こすが、この程度では残念ながら却下せねばならない。