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カッバーラでしか解けない「ヨハネの黙示録」(56)

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(56)「二人の証人」の公開処刑と復活

 モーセの時代、古代エジプトは凄まじい天変地異に見舞われた。それと同じ事が未来ではさらに大規模に起きる。

「二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上がってきて彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。彼らの死体は、喩えてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架に付けられたのである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章7~8節)

 「証しを終える」とは、人々に対する最後の警告を終了したということである。それから先には人々に悔い改めの機会はなく、もはや滅ぼされるのを待つしかない。

 使命を終えた2人の預言者は捕らえられ、世界中が見守る中で公開処刑される。その遺体はエルサレムに晒され、世界中のメディアというメディアは、これをこの上ない喜びとして伝える。

「様々の民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章9~10節)

 2人の預言者は、「様々の民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々」にとって疫病神であり、厄介者だった。彼らが死んで喜ぶのは民衆だけではない。特に三位一体を唱える大教会は狂喜するだろう。それだけ世の中の悪が極まったということである。

 「三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許されない」とあるように、その憎しみは激しく、2人の死は世界最大の祭として盛り上がる。世界はソドムとゴモラと同じ状態となり、後は灼熱の業火に滅ぼされるのを待つばかりになる。

 最終章は、殺したはずの2人の証人が、イエス・キリストのように復活することで幕を開ける。

「三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大きに恐れた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章11節)

 完全に殺したはずの人間が神の体で復活する。→マテリアリズム(唯物主義)を標榜する者たちにとって、これほど恐ろしい状況はない。無神論者も同じで、地上の物事に執着する人々にとって、これは最悪の状況である。

 復活体は二度と殺せない。どのような武器も通用しないため、世界中の人々は贈り物どころの騒ぎではなくなる。

 肉と霊が存在する事実をあからさまに見せつけられたうえ、神が実在するという事実を知った人々は、一斉に悔い改めようとする。だが、完全に手遅れだ。もはや扉は閉じられたのである。毒麦は集められて焼かれるだけである。

「刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい。」(新約聖書「マタイによる福音書」第13章30節)

 2人の証人はイエス・キリストのように昇天する。その舞台となるエルサレムでは、恐怖にかられた軍がパニックに陥り一斉に逃げ出す。こうした状況下、いよいよ世界は滅ぼされるのである。

「二人は、天から大きな声があって、「ここに上がってこい」というのを聞いた。そして雲に乗って天に上がった。彼らの敵もそれを見た。その時、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章12~13節)

 2人の昇天の直後、エルサレムは大きな地震に見舞われ、町の10分の1が破壊され、7000人が押し潰される。だが、それで終わったわけではない。世界は最も恐ろしい殺戮者を迎えるのだ。

「第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第11章14節)

 ここが一つの区切りである。

 第1の災いは「第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。第六の天使がラッパを吹いた」とある、第5の天使までである。そして、第6の天使と第7の天使までが第2の災いとなり、いよいよ第3の災いへと突入する。

 ここで、救いの日が到来するまでの日数を記した箇所が「ダニエル書」にあるので、紹介する。

「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。」(旧約聖書「「ダニエル書」第12章11~12節)

 「憎むべき荒廃をもたらすもの」とは当然、獣である。獣が完全に支配したのは1260日(3年半)だから、ここにある1290日とは30日の隔たりがある。その30日が何を意味するのかを知る手掛かりになるのが、「日ごとの供え物が廃止され」で、これは完全支配へと至る予兆と解釈できる。つまり、獣が完全支配するまでの約1か月前に予兆が現れるということである。

 預言者ダニエルは、それを含む1335日を生きた者は幸せだと記している。悔い改めた者には待ち遠しいカウントダウンだが、そうでない者には断頭台への秒読みとなる。それを突きつけた預言者が死んだので、世界中が狂喜乱舞し、熱狂の余り肩をたたき合い手を握りあうのである。

 言い換えれば、そこまで悪がはびこったこの世界では、それが起こるときまで生きていない者が圧倒的であるということである。

*(飛鳥氏の視点)

 言霊とは預言のことである。言霊には神の霊が宿っている。だから、一言一句変わることなく具現化する。その意味で神の言葉を預かる預言と同義である。イエス・キリストが人を生き返らせたり、嵐を静めたのも、そこに神の息吹が存在したからだ。

「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて子供のいるところへ入って行かれた。そして、子供の手を取って「タリタ、クム」と言われた。これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上って、歩き出した。十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きの余り我を忘れた。」(新約聖書「マルコによる福音書」第5章38~42節)

「その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」人々は驚いて「一体、この方はどういう方なのだろう。嵐や湖さえも従うではないか」と言った。」(新約聖書「マタイによる福音書」第8章24~27節)

 言い換えれば、言霊を発することができるのは、神の代弁者である預言者だけである。その言霊が日本にある以上、日本にも預言者がいたことになる。

 そこで思い出すのが聖徳太子である。「日本書紀」に「兼知未然(兼ねて未然に知ろしめす)」とあるように、太子はあらかじめ先の出来事を知ることができた。事実、聖徳太子の預言伝承は日本各地にあり、太子が建立した「法隆寺」と「四天王寺」には、預言書である「未然記」が所蔵されている。これは日本人がヘブライ人の末裔であることを示唆している。


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