(13)世界を旅して分かったことー探していたものは出口王仁三郎だった!(出口恒氏)
これからは出口王仁三郎の曾孫・出口恒氏の講演である。
1979年夏から、世界中を旅していた。世界二十数か国ぐらい回った。その間、刺されたり、ホールドアップにあったり、車に轢かれたりした。当時、本宮ひろしと言う漫画家が「俺の空」という本を出していた。主人公は安田一平と言う東大卒の男で安田財閥の御曹司でそれを地で行こうとしたわけです。実際には、そんなに格好良くはなかったが、世界中を回って初めて分かったことがあります。今、「俺の空」は日本にしかない。出口王仁三郎の世界にしかないと悟ったのです。自分は、三男で部屋住みで、へたれでお馬鹿で苛められっ子で、出口本家でもない。(本家は)男の子が生まれないので本家でなくてよかったと思っている。
私の1冊目の本は「誰も知らなかった日本史」で、そこで出口王仁三郎が皇位継承順位第1位の有栖川宮熾仁親王の落胤であることを論証した。そして、平安京最後の天皇である孝明天皇が旭形亀太郎という力士に皇国の神術「切紙神示」と「たまほこのひ可里」「八紘一宇の数表」、それを基にした違勅を伝え、孝明天皇が日本を救う「みろくの大神」である出口王仁三郎の登場を待ち望んだことを明らかにした。
明治24年12月30日、出口王仁三郎聖師の父、有栖川宮熾仁親王は、神宮祭主にに就任した。神宮祭主とは、伊勢神宮を含むすべての神宮の祭主・トップです。王仁三郎によれば、エホバとは天御中主神であり国租、国常立命、天照大神、艮の金神となる。だから、大本弾圧の理由は、日本で初めて最高神である天御中主神をお祭りしたからです。現人神である天皇より高い存在を明治政府は認めるわけにはいかない。しかも、出口王仁三郎こそが、皇位継承順位第1位、有栖川宮熾仁親王の唯一の直系男子で真の皇統だったからです。
出口王仁三郎の相続者、あるいは継承者は誰か? 私の親父は出口和明(やすあき)という。和明の誕生日は昭和5年8月15日です。翌16日の王仁三郎の日記に、「貧しけれど吾世を継がむ相続者 生まれし今日の嬉しさ忘れじ」とあり、和明は、「吾が世を継がむ相続者」とされ、王仁三郎は自分の後継者として和明を指名している。
昭和10年12月8日には、第2次大本事件が起こり、白馬王子のような存在であった和明は一転して大逆族の子として非国民扱いされ、石を投げられて育つ。王仁三郎は我が子に最も重い十字架を背負うことを託した。
王仁三郎の言行録の一つに「月鏡」という書籍があり、「十和田湖の神秘」という題で十和田湖の伝説が書かれている。和明の前世は十和田湖の竜神、男装した女子男装坊(なんそうぼう)という僧だという。この物語では、十和田湖の先住者となる「八郎」という子供が登場する。「いわな」を食べてしまおうという邪念の兆したことがあり、八岐大蛇に憑依され大蛇の姿になる。その八郎が十和田湖の神秘伝説の一方の主人公です。そして八岐大蛇となった八郎を男装坊が法力で退治し、八郎は十和田湖を明渡し、秋田方面に逃げ、八郎潟を作る。八郎と戦うために竜体となった男装坊が新しい十和田湖の主となる。
さらに「玉鏡」「男装坊の再生」には次の文章がある。
月鏡、十和田湖の神秘を読んだ者は誰でも知っている如く、湖の主が昇天の時、王仁(わたし)に約束した言葉がある。「再生の時は大本に生まれて参ります」と。元来は王仁の子となって生まれるはずであったが、それが出来なかったので、八重野が生まして貰った和明がそれである。十和田湖の竜神の再生であるから、十和田湖の和をとり明は日と月で神を表すつもりでかく命名したのである。王仁をばかり慕って、父親はそっちのけで聖師樣聖師樣と付き纏う。霊の因縁は不思議なものである。・・・・・・・・・・男装坊は三熊野三神、別けて神スサノオの尊の神示によって弥勒の出現を待ちつつありしが、・・・・昭和3年の秋、四山の紅葉今や錦を織らむとする頃、神スサノオの尊の神示によりてここに瑞之御魂(みずのみたま)十和田湖畔に来たり、弥勒出現の神示を宜りしより男装坊は欣喜雀躍、風雨雷鳴地震を一度に起こして徴証を示しつつ、その英霊は天に昇りたり、それより再び現界人の腹をかりて生まれ、男性となって弥勒神政の神業に奉仕する事とは成りぬ。・・・
男装坊の話だけで1冊のテーマになるのでここでは省略します。