(10)覚醒剤中毒者の幻覚にはなぜ虫が現れるのか?
最近では昆虫に対する嫌悪感が増えている。カブトムシに触れない男子も増えている。アメリカでも昆虫嫌いが多い。(山口氏)
最近、小学生のノートの表紙からいっせいに昆虫の姿が消えたけど、子供が気持ち悪がっているとか、怖がっているという親からのクレームが多く寄せられたからだという。(飛鳥氏)
覚醒剤をやっている者は、100%自分の身体に虫が湧くか体の中に入り込む幻覚を見る。口から虫が無限に出てきたりするという。(飛鳥氏)
なぜか虫への本能的な恐怖心が強い。ただ不思議なのは、日本に命の危機を与えるということでは、熊の方が虫よりも高い。それなのに、ここまで虫の恐怖を植え付けられているのは、やはりマンティスマンが過去、地球に来ていて、地球人にとって恐怖の存在だったことの証明ではないかなと思う。(中沢氏)
太古のトンボはデカかった。巨大なムカデもいたから、まるでスタジオジブリの「風の谷のナウシカ」の腐海の世界そのものだから、怖い。(飛鳥氏)
トンボと言うと、トンボに人の魂が乗って、あの世に行くという考え方があり、「お盆時季にトンボは捕ってはいけない。死んだおじいちゃん、おばあちゃんが乗って帰ってくるからね」と言われたりした。(山口氏)
歌舞伎役者の家柄だったら、死んだ後にハエやチョウになるという言い伝えが家ごとにあって、死んだ後しばらくは、ハエが入ってきても捕まえて外に逃がしてあげるという。ご先祖様だから。(山口氏)
ハエで思い出したが、死肉に群がるハエの中でニクバエは、死骸の強酸性の肉汁を足に付けて飛び回るため、それに触れた人間の皮膚は大火傷するらしい。それにしても、どうして覚醒剤をやっている者は虫を見るのかね?(飛鳥氏)
虫って死体にたかったりする。だから、山で死体があると、そこから出てくる体液にチョウやハエやガがたかっている。だから、死んだらチョウになるという考え方は、実は死体にたかるチョウからきているかもしれない。ウジ虫はハエが卵を植え付けた結果だけど、昔の人は体から勝手に湧いてくると信じていた。(飛鳥氏)
「虫が湧く」と言う言葉自体、そこから発生している。(中沢氏)
話は変わるが、子供を作らないセックスを悪として糾弾する団体がいる。聖書の考えに従うなら、子供を産むため以外は性行為を悪しきものとする考え方を御存知ですか?(中沢氏)
要するにコンドームを使ったセックスはダメと言うことね。(山口氏)
それもダメだし、オナニーもダメだという。(中沢氏)
オナニーの語源は聖書の「オナン」からきている。オナンと言う男が射精する時に女性の身体ではなく大地に射精してしまったという話。つまり、子供を産むためではないエッチをした男の話である。それが聖書では悪とされていて、いわゆる性産業のほかAVとかエロ漫画などオナニーのおかずになる物を悪だと考えている人達がいる。それもあって、東京オリンピックのためにクリーンな町にしようと、今、風俗店がどんどん減らされている。コンビニからも裸のおねーちゃんが表紙の雑誌が撤廃されるという話になっている。(中沢氏)
だけど、世界一幸せな国と言われたブータンに行くと、ペニスの絵とかあちこちの壁やドアにある。この事実を日本人は知らないし、それを言うと、「作り話はするな」「テレビでそんなの映っていない」「ブータンに対して失礼だ」と言う非難の目を向けてくる。日本のアニメがほとんど世界で通用しないのは、エロではねられているからだ。萌え系のミニスカファッションで太ももを出すが、あれが世界ではアウト。パンチラでもアウト。だから、日本のアニメは世界では思う以上に伸びていない。(飛鳥氏)
日本は本当、エロ自体がオープンになっていて、それは聖書を信じる人からすれば悪しき事だと思う。日本人の価値観ではエロをSもネタ的なお笑いとして扱いがちだが、世界のいろいろな人が自分たちを同じような価値観だと考えるのは非常に危険である。(中沢氏)
性の話で言うと、フリーメイソンのマークはコンパスと曲尺である。コンパスは円。曲尺は四角と関係する。これ、円は天の象徴で、四角は地の象徴だ。そして、天は男、地はモノを生み出すので女なのだ。そしてコンパスはV字型に開いているが、男の両太ももである。下の曲尺は女の両太ももであり、和合を示唆している。さらに、ユダヤの三種の神器もそうだ。三種の神器の一つはアロンの杖、そしてマナの壺、それからモーセの十戒石板である。ユダヤの三種の神器とは、2枚の円形の石板に、長い棒に、壺となり、すなわち、金玉とペニスと女性の肉壺と言うことになる。けれは不埒な話ではない。ヒンドゥー教の「リンが」と同じである。それから、神社の鈴は男のペニスを丸くしたデザインだから。しかも、神社の御神体はみな男根である。心御柱も男の一物なのだ。恥ずかしいことでもなんでもなくて、これは、そうしないと、「産めよ増やせよ地に満ちよ」とはならないからである。(飛鳥氏)