(47)キリストに召された岡本天明
(下つ巻・第37帖 「天のひつくの民」とは)
神の世が訪れたら、大地も大気も光を発し、草木全ても光を放つ世界になる。石や岩さえも歌うかのようになり、天も風も、復活した不死不滅の人々の上に、神の恵みのような状態になる。今の世の人々は、自然をいたずらに操作してわがまま放題しているが、そのうちに強烈なしっぺ返しが待っている。神の組織に属する日本人の官僚主義者たちは、悪人ではないし偽善者でもないが、人々が神の下に集まる道を塞ぐ行為を結果的に行うことになる。マニュアルである律法しか信じないため、マニュアル以外の物事や提案を律法学者のように全て否定するからである。結果、現実に対応できず、応用が働かないため人は何もできなくなる。最終的に神の力が組織全体に働かず、神の力が国内で発揮できずに停滞してしまうのだ。彼らはそれに気づかないし、気づこうともしない。自分たちの官僚主義が神の組織を守っていると信じて疑わないからだ。しかし、預言者の周囲は官僚主義を承認していない。官僚主義は基本的に後ろ向きで、マニュアル以外の物事をすべて否定する立場を貫く。官僚主義が目指すのは許認可権の確立しかなく、一度許認可権を確立させると、マニュアルの範囲内の事しか行わなくなる。結果として決まりごとの繰り返ししかできなくなり、繰り返しを最も得意とするようになる。
自分たちが確立したマニュアル重視に影響を与えかねない変化を最も嫌い、異端として排斥しようとするが、それはイエス・キリストを律法違反として排斥した律法学者やサンヒドリンと全く同じ行為である。神の「容れもの」である「器」を持つ人々が必要で、神はそういう準備された人々を集めようとなさる。「天のひつくの民」に属する人々は、官僚主義により力を発揮できない有様になっているが、試練に耐えてこその信仰である。神はすべてを記録されているので、いつか必ず努力に答えてくださる。永遠の尺度で神は導かれるので、試練は何時の世でも付きものと考えてほしい。神の組織の人々は日本人の官僚主義によって空回りし、同じところを堂々めぐりして発展できない有様だが、その内に上下が逆転する時が来る。それが起きて、初めて日本と言う国でも同じことが起き、世界でも起きて、神の世がやって来る。神の組織で、官僚主義から悔い改めた者の順に神は赦すことになるが、官僚主義者の悔い改めは難しいだろう。
(解釈資料)
「天のひつくの民」とは、「天日津久の民」と書き、岡本天明に「日月神示」が降ろされた「天日津久神社」の神を指している。1944年6月10日に「麻賀多神社」の敷地内にある「天日津久神社」で、天明は不思議な体験をし、その神に捕らわれることになる。すべては天照大神の御霊分けあり、岡本天明は天照大神であるイエス・キリストに召されたことになる。その日、天明は誰もいない社務所で休んでいたところ、突然右腕が膨張して激痛が走った。審神者であったが画家でもあった天明は、筆と画仙紙を持っていた。そこで試に筆を画仙紙にあてたところ、勝手に右手が動きだし、文字か記号のようなものを次々と書きだしたという。これが「日月神示」で、昭和を代表する天啓の書が生まれた。天明はその後16年間にわたり、神託を受け続け、書記を終了した2年後、65歳でこの世を去った。
この預言書の最大の要は、「神一厘の仕組み」である。世の中の九分九厘が悪神の天下になった時、最後の一厘で神の大業が発動され、大どんでん返しが起こり、世の立て直しが始まるというものである。その立て直しは、最初は日本の神の組織から始まり、日本で起きて、世界に拡大するという。天皇家も例外ではなく、天照大神(イエス・キリスト)から最後の天皇陛下に下る召しは、レビ族直系の者として驚天動地の内容になる。それを妨害する官僚主義者は、悔い改めないと駆逐される。日本から世界に打って出る神の仕組みが、岩戸開きを通して一気に動き出すからである。
「生命の樹」は人に命を与えるが、「死の樹」は命を奪う。生命の樹は救世主の象徴であり、死の樹はサタンの象徴である。知識を得た人間は、その知識で殺し合いを初め、最終的には「大量殺戮兵器」で全人類を滅ぼしてしまう。サタンは蛇になって知識を得る死の樹に巻き付き、エバをだまして禁断の実をアダムにも食べさせた。
生命の樹に巻きつく蛇は救世主の象徴であるため、人々に救いをもたらす。日本では白蛇で象徴される。
「主はモーセに言われた。あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた」(「民数記」第21章8~9節)
イエス・キリストは、人類史上初めて、神界の構造を言葉によって明らかにした現人神(メシア)である。それゆえ、唯一神信仰だったユダヤ人によって磔刑にされた。生命の樹のセフィロトで、ダアトとマルクトを除く9つが3次魔方陣と対応している。なぜ、2つのセフィロトが除外されるかと言うと、ダアトは10個の中に加えられていない。ダアトはこの世を越えた来世への入り口となり、マルクトは、死であり地獄である。いずれもこの世ではない世界へ行くからである。
「モーセの十戒」も生命の樹の10個のセフィロトと対応する。その中で最も低い戒めがサタンと関わっている。天地創造の前、サタンがルシフェルと呼ばれた頃、この10番目の戒めをサタンは破った。天の父の世界を奪おうとしたからである。それゆえ、マルクトは、サタンが支配する地獄と直結する戒めで、最下層より下のセフィロトである。
カッバーラではダアトは「洗礼」を意味し、原始キリスト教徒の洗礼は水中に前身の横たえて沈めた。これは墓に横たえる死を意味し、水中から上がる行為は新たな誕生「復活」を意味した。これが神界に至る悔い改めに必要な儀式である。三柱の生命の樹と三方陣を重ねると、三本柱=絶対三神の構造に沿って、縦3列になる。これは魔方陣なので合計数「15」で、一桁換算で「6」となる。これにダアトの「1」を加えると、「7」になる。ダアトから伸びるパスが三本柱とつながっているのはそのためである。つまり、三本柱が「完全数7」を持つ絶対三神となり、それが三位三体の「777」でラッキーセブンの元になっている。
高慢に陥り、神のなろうとしたルシフェルは堕天使サタンである。サタンに従った天使たちも一緒に地の底に落とされ、霊体のままこの世を悪霊と呼ばれて地をさまよっている。
神が777の「絶対三神唯一神界」が形成するように、、サタンも「絶対三魔唯一魔界」を形成する。ヨハネの黙示録にはこうある。
「私はまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、カエルのような汚れた三つの霊が出てくるのを見た」(「ヨハネの黙示録」第16章13節)
「竜」「獣」「偽湧現者」で構成する死の樹の三本柱で、中央の死の柱が「サタン」、向って右端が「獣」、向って左端が「偽預言者」である。「666」とはサタンと獣と偽預言者の事である。この絶対魔が人を破滅へと導くのである。これが最終戦争の「ハルマゲドン」となる。